日光東照宮 三神庫
東照宮大造替の際に建てられたもので、表門をくぐり右側から正面に鉤の手状に並んでいる。東大寺の正倉院と同じ校倉造[あぜくらづくり]、朱塗りの3棟の建物だ。手前から下神庫・中神庫・上神庫とよばれ、この三神庫には千人武者行列に使う1200人分の装束が収納されている。上神庫の妻には、黒と白の「想像の象」といわれる彫刻が飾られており、東照宮三彫刻の一つ。
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東照宮大造替の際に建てられたもので、表門をくぐり右側から正面に鉤の手状に並んでいる。東大寺の正倉院と同じ校倉造[あぜくらづくり]、朱塗りの3棟の建物だ。手前から下神庫・中神庫・上神庫とよばれ、この三神庫には千人武者行列に使う1200人分の装束が収納されている。上神庫の妻には、黒と白の「想像の象」といわれる彫刻が飾られており、東照宮三彫刻の一つ。
東照宮見学のハイライトである陽明門は、高さ11.1m、正面7m、側面4.4mの全ての面に江戸初期の装飾技術を集結させた彫刻を施している。極彩色で装飾されている2層の楼門は、1日中見ていても見飽きないことから日暮門[ひぐらしもん]の異名をもつ。12本の円柱が支えるため十二脚門ともよばれる。明治維新まで庶民がこの門を通ることは許されておらず、武士は刀を預け、勅使でさえも装束を改めたという。
徳川3代将軍・家光公の墓所で「大猷院」とは家光公の諡名のこと。慶安4年(1651)、48歳でこの世を去った家光公の遺言を受け、4代将軍家綱公の命により、承応2年(1653)に完成した。東照宮の建築が白と金と赤を基調にしているのに対して、大猷院は金と黒と赤を基調にしている。大猷院は純粋な仏式の建物である。
延暦7年(788)、勝道上人が建立した日光山輪王寺の別院。弘法大師や慈覚大師も訪れたことにより、ますます信仰も深まったといわれる。その名の通り境内には勝道上人が発見した薬師湯があり、行事のない日には観光客でも入浴できる。源泉かけ流しのにごり湯で、療養、延命のご利益のある名湯として親しまれている。
東照宮内の神厩舎を過ぎた、参道の曲り角にある清楚な雰囲気の建物。元和4年(1618)、佐賀藩主・鍋島勝茂による奉納で、唐破風銅板葺きの豪華な屋根を12本の花崗岩の角柱で支えている造りが特徴。当時としては画期的なサイフォンの原理を応用し、花崗岩でできた水盤から常に水が噴き出る仕組みになっている。飛龍と立波の透彫や鯉など、すべて水にちなんだ彫刻ばかり施されている。
東照宮の本殿・拝殿の正門にあたり、門柱には唐木の寄せ木細工で造られた昇龍と降龍が飾られている。屋根の前後は「つつが」(唐獅子の説も)、左右には鰭[ひれ]切れの龍を置き、欄間には中国の故事にちなんだ彫刻があり見事だ。
東照宮境内、表門をくぐると左手に、神馬をつなぐ厩[うまや]・神厩舎[しんきゅうしゃ](重要文化財)が立つ。その神厩舎の長押[なげし]上に施された8態の猿の彫刻は、子供から大人に成長する猿の姿が描かれ、人の一生を物語っている。なかでも子供時代を表した三猿の彫刻が有名。悪いことは、見ざる・言わざる・聞かざるという意味が込められている。
東照宮最大の建物で別名、薬師堂といわれている。寛永の大造替のときに建てられ、単層入母屋造、高さ15m、正面20.8m、側面13m、総漆塗極彩色の華麗な建築である。当時、徳川家康は薬師如来の化身であると考えられたといわれ、内部には東照権現の本地仏、薬師如来を安置している。また、天井に描かれている鳴龍も有名。本地堂は、昭和36年(1961)に焼損しており、現在の建物は昭和38~43年(1963~68)に再建されたものである。
東西南北を守護する4体の夜叉を祀り、東照宮でいえば陽明門にあたるのが輪王寺大猷院の夜叉門。屋根も陽明門と同じ軒唐破風[のきからはふ]の切妻造になっている。毘陀羅[びだら]、阿跋摩羅[あばつまら]、鍵陀羅[けんだら]、烏摩勒伽[うまろきゃ]といった武器を携えた色彩やかな夜叉が門を守っているところから、夜叉門とよばれる。別名・牡丹門ともよばれるのはボタンの花が多く装飾されているところから。全体に黒赤と金を基調に、荘厳な雰囲気が漂う。
東照宮境内にある三神庫[さんじんこ](重要文化財)のひとつ、上神庫[かみじんこ]の妻に施された彫刻が東照宮三彫刻の一つ想像の象。当時、象は誰も直接見たことがない想像上の動物であったため、いま見ると少々姿は違うが、想像だけで彫られたことを考えれば、驚かされる。
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