
日光東照宮 神厩舎 三猿
東照宮境内、表門をくぐると左手に、神馬をつなぐ厩[うまや]・神厩舎[しんきゅうしゃ](重要文化財)が立つ。その神厩舎の長押[なげし]上に施された8態の猿の彫刻は、子供から大人に成長する猿の姿が描かれ、人の一生を物語っている。なかでも子供時代を表した三猿の彫刻が有名。悪いことは、見ざる・言わざる・聞かざるという意味が込められている。
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東照宮境内、表門をくぐると左手に、神馬をつなぐ厩[うまや]・神厩舎[しんきゅうしゃ](重要文化財)が立つ。その神厩舎の長押[なげし]上に施された8態の猿の彫刻は、子供から大人に成長する猿の姿が描かれ、人の一生を物語っている。なかでも子供時代を表した三猿の彫刻が有名。悪いことは、見ざる・言わざる・聞かざるという意味が込められている。
東照宮境内、二ノ鳥居をくぐってすぐ左側に見える、極彩色の彫刻で飾られた建物。重層宝形造という二重になった屋根が特徴で、下層、上層には軒裏までかざり金具がふんだんに使われ、極彩色の彫刻が施されている。内部には、輪蔵とよばれる八角形の回転式大書架があり、天海版の一切経1456部、6323巻が納められていた。その前面には輪蔵を発明した中国人親子の木像が置かれている。その像の子供たちが笑っている姿から「笑い堂」ともよばれる。
輪王寺三仏堂の後方にある朱塗りの小さな堂。毘沙門天、大黒天、弁財天の開運三天が祀られている(現在は護摩堂に安置)。
徳川3代将軍・家光公の墓所で「大猷院」とは家光公の諡名のこと。慶安4年(1651)、48歳でこの世を去った家光公の遺言を受け、4代将軍家綱公の命により、承応2年(1653)に完成した。東照宮の建築が白と金と赤を基調にしているのに対して、大猷院は金と黒と赤を基調にしている。大猷院は純粋な仏式の建物である。
石段の上に立つ楼門で、日光山内最大とされる。門の上部には後水尾上皇[ごみずのおじょうこう]の筆による「大猷院」の額が掲げられ、軒下には彩色豊かな装飾が施されている。名前の由来は、四天王のうちの表に祭ってある持国天と広目天から。
屋島、壇ノ浦の戦いで源氏に敗れた平家の落人が逃げ延び、隠れ住んだ集落とされる湯西川。この集落には、人目を避けて暮らしていた落人たちの独自の習慣が今なお残っている。集落を見渡す高台に位置する慈光寺は、平家落人の菩提寺と伝わり、子宝を授かろうと落人たちが参拝しに来たとの逸話も残っている。
約1200年前、日光山を開いた勝道上人によって創建されたといわれ、坂東17番札所として今も多くの信仰を集めている。本尊は弘法大師作と言われる、千手観音像。釘を1本も使っていない本堂も一見の価値あり。奥の院の岩窟(鍾乳洞)も見どころ。
宇都宮市で生まれた江戸時代の儒学者で前方後円墳の名付け親、蒲生君平を祀る。合格祈願に訪れる受験生が多い。
東照宮の一ノ鳥居をくぐり抜け、五重塔と表門に囲まれた大きな正方形の広場。表門を支える巨石を重ねた石垣があり、阿房丸とよばれる巨大な一枚岩は高さ3.25m・幅6.3m。圧倒される迫力がある。休憩処は、日光山内を歩き回った後のひと息にも好適。ここから二荒山神社へ向かう上新道[かみしんみち]が延びている。実際に1000人が立てる広さがある、一ノ鳥居前の石段の部分を千人枡形とする説もある。
東照宮には121基の燈籠があるが、中でも有名な燈籠がこれ。伊達政宗公がポルトガルから取り寄せた、南蛮鉄で鋳造させたといわれる2基の燈籠。経蔵の前、陽明門へ向かう石段の右横に位置し、反対側には薩摩藩主・島津家久公が奉納した唐銅[からがね]燈籠が立っている。ちょうど陽明門を南北の大藩が固める形になり、当時の徳川幕府の権力の強大さがうかがえる。
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