
東明寺
矢田丘陵の中腹にある高野山真言宗の古刹。開基は舎人[とねり]親王と伝え、本尊に平安時代作といわれる量感豊かな木造薬師如来坐像、木造毘沙門天立像、木造吉祥天立像(ともに重要文化財)などを安置する。本堂のほか、鎌倉時代後期の作と伝えられる高さ4m15cmの七重石塔が立つ。寺宝で開山当時より伝わる“雷様のヘソ”がある。
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矢田丘陵の中腹にある高野山真言宗の古刹。開基は舎人[とねり]親王と伝え、本尊に平安時代作といわれる量感豊かな木造薬師如来坐像、木造毘沙門天立像、木造吉祥天立像(ともに重要文化財)などを安置する。本堂のほか、鎌倉時代後期の作と伝えられる高さ4m15cmの七重石塔が立つ。寺宝で開山当時より伝わる“雷様のヘソ”がある。
聖徳太子の遺命により岡本宮を山背大兄王[やましろのおおえのおう]が寺に改めたと伝わる。池に美しい姿を映す三重塔(国宝)は706年(慶雲3)の完成で、現存するわが国最古の三重塔。
大和川・寺川・曽我川など9つもの川が合流する場所に立ち、農耕と治水の神として信仰を集める古社。境内には、春日造の朱塗りの社殿が鎮座している。2月11日の御田植祭[おたうえさい]は「砂かけ祭」と呼ばれ、参拝者も一緒になって砂を激しくかけあう奇祭。河合町指定無形民俗文化財に指定。
十一面観音像を本尊とする古寺。縁起によると、敏達[びたつ]天皇の第7皇女である片岡姫が仏教に帰依し、自らの片岡宮を寺にしたと伝えられる。また用明天皇や聖徳太子らの支援を受け、大伽藍が建造されたともいわれるが、永承元年(1046)に落雷のため多くを焼失。残った堂宇も元亀3年(1572)に松永久秀の兵火で失った。境内には桜の老木があり、隠れた名所。
高松塚古墳の南一帯は古代、檜隈[ひのくま]と呼ばれ、朝鮮半島などから渡ってきた渡来人が多数住んでいた地。大和棟の民家が美しい景観をつくる現在の檜前集落の南のはずれに、渡来系氏族東漢[やまとのあや]氏の氏寺だった、この寺跡がある。於美阿志[おみあし]神社境内に金堂や講堂の基壇や礎石が残り、塔跡には平安時代の十三重石塔(重要文化財)が立つ。
宇陀川沿いに立つ小寺。役行者[えんのぎょうじゃ]が開き、弘法大師が天長元年(824)に堂を建立したと伝わる。対岸の岩壁に線刻された弥勒大磨崖仏(史跡)は高さ11.5mで国内最大級の磨崖仏。鎌倉時代に笠置寺[かさぎでら]の磨崖仏を模して刻まれたといわれる。本堂安置の地蔵菩薩立像(重要文化財)は「身代わり地蔵」と呼ばれ、無実の娘を火あぶりの刑から救ったという伝説が残る。
昭和45年(1970)唐招提寺に建てられた鉄筋コンクリートの収蔵庫で、境内東方にある。工芸、絵画、経文類など多数の寺宝のほか、破損仏も収蔵している。唐招提寺のトルソーと呼ばれる、頭と手がない如来形立像(重要文化財)も収められている。「天平の甍[いらか]」で有名な金堂の鴟尾[しび]を公開中。
寛永15年(1638)、柳生宗矩[むねのり]が父で柳生新陰[しんかげ]流の創始者、石舟斎[せきしゅうさい]の菩提を弔うために建立。以後、柳生家の菩提寺となった。開山は宗矩と親交があった沢庵[たくあん]和尚だ。本堂には宗矩や沢庵の木像を安置し、柳生新陰流の兵法書なども展示。本堂裏手の墓地には石舟斎、宗矩、十兵衛ら一族の墓80数基が整然と並ぶ。本堂建物は奈良市指定文化財に指定されている。
天正13年(1585)に豊臣秀長が建立したといい、本尊の阿弥陀三尊立像(重要文化財)は鎌倉時代の作で快慶作と伝わる。門の左手の小堂に祭る石仏「垢かき地蔵」はふっくらした顔立ちで気品があり、かつては郡山城の沓脱石[くつぬぎいし]になっていたといわれる。門前の洞泉寺町はかつての花街で、木造3階建ての旧遊郭が残る。
大和郡山の町中に佇む秀長の菩提寺。旧寺号は東光寺と称し、春岳院の名は秀長の戒名による。本堂は正徳元年(1711)の再建。寺宝に足利尊氏の念持仏という千手観音を伝え、狩野貞信[かのうさだのぶ]筆の秀長画像などもある。秀長統治時代の郡山を知る資料も数多く伝える。拝観は事前に連絡を。
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