
吉田寺
御本尊・丈六阿弥陀如来坐像は恵心僧都源信の作と伝えられ、御本尊前にて御祈祷を受けると、長患いなく安らかに極楽往生を遂げることができるという霊験がある。境内の多宝塔と共に国指定重要文化財でもある。
- 「法隆寺駅」から徒歩22分
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御本尊・丈六阿弥陀如来坐像は恵心僧都源信の作と伝えられ、御本尊前にて御祈祷を受けると、長患いなく安らかに極楽往生を遂げることができるという霊験がある。境内の多宝塔と共に国指定重要文化財でもある。
法隆寺西院伽藍北西の高台にある国宝の八角円堂。養老2年(718)、光明皇后の母である橘夫人の発願により、行基が創建したと伝えられている。現在の堂は、建長2年(1250)の再建で、鎌倉時代の堂々とした気風を感じさせる。堂内中央に安置された天平後期作の本尊・薬師如来坐像(国宝)は、「峯の薬師」とも呼ばれ、高さ246cmの脱活乾漆造の大きな仏像だ。毎年2月初旬に行われる西円堂修二会[しゅにえ]の鬼追式(追儺会)は、節分の豆まきの原形という。
信貴山朝護孫子寺の塔頭寺院。大和七福八宝巡りや大和十三仏霊場巡りの札所。宿坊もあり、信貴山毘沙門天の参拝や奈良旅行の宿としても利用できる。手作りの胡麻豆腐や生麩使ったを精進料理は、客殿の個室でランチでも予約できる。宿泊は1泊2食9900円~、ランチは精進料理3300円~、会席料理は4400円~。
唐招提寺の金堂と講堂の間にある2階建ての建物。入母屋造、本瓦葺きで、正面3間、側面3間と小規模ながら整った仁治元年(1240)建立の鎌倉建築で、国宝。鑑真和上が唐から将来した仏舎利を安置していることから舎利殿とも呼ばれている。毎年5月に行われるうちわまきの行事はここで行われる。
聖武天皇が狩りをした際、我が子の流れ矢にあたって死んだ鳥見[とみ]郷の名族真弓長弓[まゆみながゆみ]を哀れんで、行基に命じて建立させたと伝わる。入母屋造檜皮葺きの本堂(国宝)は、弘安2年(1279)に建立。和様に天竺様、唐様を加えた優美な建築。堂内には厨子(重要文化財)に納められた一木造の十一面観音立像(重要文化財)を安置する。3つの塔頭では精進料理も味わえる。
矢田丘陵の中腹にある高野山真言宗の古刹。開基は舎人[とねり]親王と伝え、本尊に平安時代作といわれる量感豊かな木造薬師如来坐像、木造毘沙門天立像、木造吉祥天立像(ともに重要文化財)などを安置する。本堂のほか、鎌倉時代後期の作と伝えられる高さ4m15cmの七重石塔が立つ。寺宝で開山当時より伝わる“雷様のヘソ”がある。
祭神は物部氏の祖神といわれる櫛玉饒速日[くしたまにぎはやひ]神。天磐船[あめのいわふね]で降臨の際に3本の矢を放ち、2の矢が落ちた所という。航空の神とされ、旅行の安全祈願に訪れる人も多い。楼門にはプロペラが奉納されている。物部氏との関係から、付近を邪馬台国とする説もある。御朱印は受付ていない。
十一面観音像を本尊とする古寺。縁起によると、敏達[びたつ]天皇の第7皇女である片岡姫が仏教に帰依し、自らの片岡宮を寺にしたと伝えられる。また用明天皇や聖徳太子らの支援を受け、大伽藍が建造されたともいわれるが、永承元年(1046)に落雷のため多くを焼失。残った堂宇も元亀3年(1572)に松永久秀の兵火で失った。境内には桜の老木があり、隠れた名所。
朝廷の寄進により、平城宮朝堂院[ちょうどういん]の東朝集殿[ちょうしゅうでん]を唐招提寺に移築したもの。正面9間、側面4間の入母屋造。数度の改修を経ているが、天平時代の宮殿建築唯一の遺構だ。講堂としても、法隆寺東院伝法堂と並ぶ天平期の数少ない例。本尊は飛天などの透彫がある二重円相光背を負う弥勒仏坐像(重要文化財)で、鎌倉時代の作。両脇に天平末期作の持国天[じこくてん](重要文化財)と増長天[ぞうちょうてん](重要文化財)を従える。
安産・子授け祈願の寺として全国から参拝者が絶えない。文徳[もんとく]天皇の皇后藤原明子[ふじわらのあきらけいこ]がこちらの地蔵菩薩に祈願したところ、清和[せいわ]天皇を出産。喜んだ文徳天皇が伽藍を整え、天安2年(858)、「腹帯が無事に解け、安産できた寺」帯解寺[おびとけでら]と名付けられた。穏やかな表情の本尊木造地蔵菩薩半跏像は重要文化財に指定されている。
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