
白毫寺
志貴皇子[しきのみこ]の山荘跡を寺にしたと伝えられ、鎌倉時代に叡尊[えいそん]が再興した。宝蔵には閻魔王坐像(重要文化財)がどっしりと鎮座。眼光鋭く、口をカッと開いて迫力満点。眷属の司命[しみょう]・司録[しろく]像(重要文化財)とともに鎌倉時代の康円一派の作だ。境内からの眺望もよく、参道の石段は秋、萩に覆われる。3月下旬ころには五色椿が花を開く。
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志貴皇子[しきのみこ]の山荘跡を寺にしたと伝えられ、鎌倉時代に叡尊[えいそん]が再興した。宝蔵には閻魔王坐像(重要文化財)がどっしりと鎮座。眼光鋭く、口をカッと開いて迫力満点。眷属の司命[しみょう]・司録[しろく]像(重要文化財)とともに鎌倉時代の康円一派の作だ。境内からの眺望もよく、参道の石段は秋、萩に覆われる。3月下旬ころには五色椿が花を開く。
大和三門跡寺院のひとつ。聖徳太子の母、穴穂部間人[あなほべのはしひと]皇后の御所を寺にしたと伝えられ、斑鳩尼寺とも呼ばれた。創建時以来の尼寺で、天文年間(1532~54)に尊智女王が入寺してからは門跡寺院となった。本堂に安置されている菩薩半跏像(国宝)は飛鳥時代後期の作。右足を組み、右手の指を頬に触れようとする半跏思惟の美しい姿に、気品のある微笑みを浮かべている。聖徳太子の死を悲しむ妃橘大郎女[たちばなのおおいらつめ]が、死後の世界の様子を刺繍させた天寿国繍帳[てんじゅこくしゅうちょう](国宝・複製)も見られる。
法隆寺夢殿の北側に立つ建物。鎌倉期の再建で、正面7間のうち東3間が聖徳太子が2歳の春に合掌した掌中から出現したという舎利を安置する舎利殿。中央1間は伝法堂への通路で、西3間が太子の一代記を描いた障壁画をおさめる絵殿。現在、絵殿東面(現在の相殿)に祀られていた太子像(重要文化財)は、大宝蔵院百済観音堂に安置されている。
役行者が大峯山を開く前に修行したといわれる修験道の霊場で、元山上[もとさんじょう]とも呼ばれる。境内には本堂や観音堂、宝塔、十三重塔などの堂塔が立ち並び、五尊磨崖仏やハラミ地蔵、貝ふき地蔵という名の地蔵が崖に彫られた行場めぐりもできる。宿坊もある。
龍田風神とも呼ばれる風の神を祭る式内社。崇神[すじん]天皇の時代に凶作が長く続いた際、神のお告げをもとに社殿を創建。気を司る天御柱[あまのみはしら]大神と国御柱[くにのみはしら]大神を祭ったところ、五穀豊穣になったと伝える。近年は、航海や航空の安全を祈る参拝客も多い。7月第1日曜の風鎮[ふうちん]祭は、天武4年(675)には営まれていたという祭りで、風神太鼓や神楽を奉納。豪快な手筒花火で幕を閉じる。
聖徳太子の弟の来目[くめ]皇子が建立したといわれるが、飛行中に娘のすねを見て墜落した久米仙人の創建との説話も残る。本尊薬師如来は眼病に霊験あらたかといわれる。本堂には、久米仙人の歯と毛(髪・ひげ)を植えた自作像とされる久米仙人坐像がある。多宝塔(重要文化財)は京都仁和寺[にんなじ]から移築したもので、桃山様式を残す。アジサイ園は6月が見ごろ。
奈良時代に元正天皇の勅願で行基が開いた高天寺に始まると伝わる。金剛山中腹の台地に立つこの寺の背後が高天原の伝承地。静かな一帯はまさに神々のふるさとを思わせる。
山の辺の道から山門をくぐると聖徳太子像が迎える。開基開山を聖徳太子と伝える由緒ある名刹。慶長5年(1600)には関ヶ原の合戦で敗れた島津義弘公をかくまう。明治の廃仏毀釈により整理を迫られたが托鉢によって再興。
當麻曼荼羅で知られる中将姫ゆかりの尼寺。中将姫の父、藤原豊成の邸跡に立ち、中将姫が生まれた所と伝わる。境内には産湯の井戸がある。見学は要事前問合せ。
興福寺にある、高さ約50mの塔。古塔としては京都・東寺の五重塔に次ぐ高さで、奈良のシンボルとして親しまれている。天平2年(730)、光明皇后によって創建されたが、たびたび焼失。現在の塔は6度目の再建だ。室町時代の建築ながら、東金堂と同様、天平様式を踏襲している。現在は約120年ぶりの修理工事が進められ、令和13年(2031)3月までの予定となっている。
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