
夕顔亭
兼六園内にある茶室。安永3年(1774)に建てられた、園内で最も古い建物。瓢池の隣にあり、次の間の袖壁に夕顔の透彫りがあるので、夕顔亭と名付けられた。
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兼六園内にある茶室。安永3年(1774)に建てられた、園内で最も古い建物。瓢池の隣にあり、次の間の袖壁に夕顔の透彫りがあるので、夕顔亭と名付けられた。
金沢城公園の兼六園に面する、国重要文化財指定の豪壮な城門。金沢城の裏口に立つ搦手[からめて]門だったもので、高麗門の一の門、櫓門の二の門に、続櫓と2層2階建ての石川櫓で構成された枡形門だ。櫓門の上部の渡櫓や左右に続く海鼠壁の太鼓塀には、隠し鉄砲狭間や石落としなどを備え、櫓の屋根には鉛の瓦が葺かれた。瓦が白っぽいのもそのため。宝暦9年(1759)の宝暦の大火で焼失し、天明8年(1788)に再建され、平成26年(2014)には約8年をかけた全面補修工事が終了。加賀百万石の金沢城のシンボルとしての堂々とした姿を見せて人気を呼んでいる。
天正11年(1583)、前田利家が金沢城に入城した直後から本格的な城づくりを開始。約30万平方mの敷地に20もの櫓をもつ城だったが、たび重なる火災から石川門と三十間長屋、鶴丸倉庫のみが残った。一時は金沢大学のキャンパスとして使用。現在は金沢城公園として整備され、復元した菱櫓・五十間長屋・橋爪門続櫓・橋爪門などが立つ。
寛永9年(1632)に3代藩主利常が板屋兵四郎に命じて造らせた水路。当時の金沢はたび重なる火災から城下を守るための防火用水や、水の便が悪かった金沢城内への引水が必要だった。そこで城から約11km離れた犀川上流の上辰巳町から兼六園まで水路を造り、当時の技術としては画期的な逆サイフォン方式で兼六園から金沢城へと水を導いたのだ。今も石引通りの歩道沿いなどで、水路の一部を見ることができる。
早道飛脚[はやみちびきゃく]足軽の組屋敷地であった旧早道町(現幸町周辺)に残されていた高西家、清水家の2軒の足軽屋敷を移築し、内部を公開している。足軽とは身分の低い歩兵のことだが、加賀藩の足軽は、小さいながらも庭付きの一戸建てに住んでいた。また、間取りも接客空間を重視した武家屋敷の流れをくむ。職務、武術、世襲など足軽関係の文献資料も公開している。所要20分。
大正時代の建物の趣はそのままに、平成22年(2010)に旧石川県庁をリノベーション。周辺の総合観光案内や無料の休憩スペースのほか、ポール・ボキューズをはじめ、工芸品のセレクトショップなどが出店する。
トイレ、展示コーナーがある無料の休憩処。観光ボランティアガイド「まいどさん」が常駐しており、周辺ガイドにも応じてくれる(無料)。貸し出し用の車椅子1台あり。
大正11年(1922)、芸妓の稽古場や事務所として建てられた瓦葺の建物。平成15年(2003)7月1日に国登録有形文化財に指定された。寄棟造り、下見板張りの洋風建築は、大正ロマンを偲ばせる。
長町で唯一、一般公開されている武家屋敷跡。代々奉行職を歴任してきた加賀藩士・野村伝兵衛信貞の屋敷跡で、格式を重んじた当時の様式を見学できる。特に、加賀藩のお抱え絵師で狩野派の画人・佐々木泉景による山水画をほどこした襖や、総檜造りの格天井、ギヤマン入りの障子戸などは、文化財的な評価も高い。また、庭園には樹齢400年のヤマモモやシイの古木、六尺に及ぶ大雪見灯篭、さくらみかげ石の大架け橋などが配置され、濡れ縁のすぐ下にまで迫る曲水、落水を配した佇まいからは、屋敷と庭園とが調和した造りを感じられる。また、石造りの階段を上ると茶室があり、眼下に庭園を眺めながら抹茶を頂ける(詳細要問合せ)。
加賀百万石前田家を代表する建造物。文久3年(1863)、13代齋泰が12代奥方、真龍院のため、兼六園に造営した。大名の風格と数奇を併せ持つ稀有な書院造で、庭園と共に国の重要文化財。長さ約20m、1本の柱も無いつくしの縁から眺められる庭園や極彩色の花鳥が欄間・障子腰板・ギヤマンに描かれるなど奥方の御殿にふさわしい意匠を凝らした造りだ。
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