
羅城門跡
平安京を貫く朱雀[すざく]大路の正門として、延暦13年(794)の平安遷都の際に建造された丹塗りの楼門があった場所。天元3年(980)の暴風雨で倒壊し、その後平安京の衰退とともに荒廃した。その様子は『今昔物語集』や、芥川龍之介の小説『羅生門』にも描かれている。現在は児童公園の中に石碑が立つのみ。
- 「東寺駅」から徒歩16分/「西大路駅」から徒歩16分
ジャンル/こだわり条件等を指定して検索できます。
平安京を貫く朱雀[すざく]大路の正門として、延暦13年(794)の平安遷都の際に建造された丹塗りの楼門があった場所。天元3年(980)の暴風雨で倒壊し、その後平安京の衰退とともに荒廃した。その様子は『今昔物語集』や、芥川龍之介の小説『羅生門』にも描かれている。現在は児童公園の中に石碑が立つのみ。
江戸後期の儒学者・頼山陽が晩年に住んだ書斎。鴨川に面して窓から東山を望めたことから「山紫水明処」と名付けたという。藁葺き、平屋の簡素な佇まいだ。見学には申込みが事前に必要。往復はがきに見学日時(第2希望まで記入)、人数(2名以上~)、電話番号、代表者の住所、氏名を明記し、〒605-0063 京都府東山区新門前松原町289 頼山陽旧跡保存会宛てで2週間前までに申し込むこと。
昭和3年(1928)に建てられた武田五一氏設計の建築物。元は大阪毎日新聞社の京都支局ビルで、社章をモチーフにした星の形の窓が目を引く。ビル内にはカフェやギャラリー、3階の劇場では、セリフを一切使わない舞台『ギア』のロングラン公演を開催中で、国内外から注目を集めている。
堀川通沿いを流れる堀川に架かる小さな橋。平安時代に文章博士三善清行[みよしきよつら]が死去したという知らせを受けた子の浄蔵が、この橋で葬列にあい、柩にすがって神仏に祈ったところ、父が蘇生したので、戻橋と呼ばれるようになったという。秀吉の命で切腹した利休の首が晒された地でもある。
豊臣秀吉の墓所で、高さ約9mの五輪石塔が立つ。旧豊国神社跡から約500段の石段を登った所、阿弥陀ケ峯の山上にある。
仙洞御所とは上皇の御所のこと。後水尾、霊元、中御門、桜町、後桜町、光格の六代の上皇が居住したが、嘉永7年(1854)に類焼。建物は再建されることなく、現在は庭園だけを残す。南池、北池を抱え、巨石、滝組、橋を配した庭園美をみせている。所要時間約1時間。
寺町通から烏丸通にかけての三条通は、赤レンガの洋館をはじめ、明治・大正期の近代建築が数多く見られ、伝統的な町家とともに独特の町並みを形成している。
上洛の際、滞在する屋敷を持たない大名のために、江戸初期に建てられた陣屋(宿舎)。大名の安全を確保するため、大広間の天井に武者隠し[むしゃかくし]を設けたり、隠し階段などが随所に設備されていたりする数寄屋造りが特徴的。防火設備も見事である。主屋と土蔵が国の重要文化財に指定されており、見学は要予約。
徳川家康が京都御所の守護と将軍上洛の際の宿泊所として慶長8年(1603)に造営。後に3代将軍家光の時代、後水尾天皇行幸に伴い大改修が行われ、現在の規模となった。堀を巡らし石垣に囲まれた広大な城内は、二の丸御殿(国宝)、本丸御殿(重要文化財)、二の丸庭園(特別名勝)などからなる。豪壮な外観に反して内部はきらびやかさに満ちている二の丸御殿の障壁画(一部重要文化財)は、狩野派の作で『松鷹図』がよく知られている。本丸御殿は京都御所内にあった桂宮家の御殿の一部を移築したもの。
大正時代の木造洋風建築を平成16年(2004)にリノベーション。カフェや雑貨店などおしゃれ系ショップが多数。京都らしさ溢れる男着物店やギャラリーショップなど、独創的な展開にリピーター続出。飲食店にも定評アリ。京都市登録有形文化財に指定されている。
運行情報はありません。
路線が登録されていません。
路線登録で登録した路線の運行情報が表示されます。
路線を登録すると、登録した路線の運行情報が右サイドで表示される機能です。
トップページ、電車関連ページで表示されます。
エリアを登録すると、登録したエリアの天気情報が表示されます。