興正寺
西本願寺南にある真宗興正派の本山。文明年間(1469~1487)、佛光寺の14世経豪が本願寺8世の蓮如に帰依し、佛光寺を弟に譲り、名を蓮教と改めて山科に一宇を建てたのが起こり。佛光寺の旧称から興正寺(興隆正法寺)と称した。その後、石山本願寺とともに寺地を移転し、天正19年(1591)に現在地に移った。建立は江戸時代(1600年頃)で、明治35年(1902)に焼失、明治45年(1912)再建。
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西本願寺南にある真宗興正派の本山。文明年間(1469~1487)、佛光寺の14世経豪が本願寺8世の蓮如に帰依し、佛光寺を弟に譲り、名を蓮教と改めて山科に一宇を建てたのが起こり。佛光寺の旧称から興正寺(興隆正法寺)と称した。その後、石山本願寺とともに寺地を移転し、天正19年(1591)に現在地に移った。建立は江戸時代(1600年頃)で、明治35年(1902)に焼失、明治45年(1912)再建。
清和天皇の六男を父とする源経基を祀る。清和源氏の祖となる経基は、六男の六と天皇の孫の意で、六孫王と呼ばれ八代後に源頼朝が生まれる。
高さ55mの国宝・五重塔で知られる東寺の正式名は「教王護国寺」。平安遷都の際に創建された官寺を弘仁14年(823)に空海が嵯峨天皇より賜り、真言密教の根本道場とした。土一揆で伽藍のほとんどを焼失したが、室町末期~江戸初期にかけて再建。本堂である国宝の金堂を中心に、国指定重要文化財の南大門と講堂、昭和初期再建の食堂が一直線に並ぶ伽藍配置は創建当時の特徴を残している。境内には、国宝・御影堂(大師堂)、宝蔵、宝物館なども立ち並び、講堂の曼荼羅を立体化した21体の仏像は圧巻。宝物館は春と秋に公開、五重塔の特別公開も要確認。
憧れの異性との出会いを成就させる、縁結びの神様として女性を中心に信仰を集めている。道祖神をかたどった愛の土鈴は良縁だけでなく、カップルの永遠の愛を呼び込むとか。交通安全の神としても知られている。
全国でも珍しい、女人厄除祈祷のある神社として有名。桓武天皇の勅命により藤原冬嗣が創建したといい、その歴史も大変深い。歴代皇后にも篤く信仰される皇后陛下勅願所である。
慶長3年(1598)に62年の生涯を閉じた豊臣秀吉を祀る。のちに徳川家康によって廃社とされたが、明治13年(1880)に再建された。桃山建築を代表する唐門(国宝)や、名工辻与二郎作の鉄灯籠は有名。宝物館には狩野内膳筆の『豊国祭礼図屏風』(重要文化財)などが展示されている。
早良[さわら]親王など、非業の死を遂げた御霊八所の神を祭る。本殿は寛政3年(1791)に宮中の内侍所仮殿を移し、寺町通に面した表門は仮皇居の建礼門を移したものと伝えられている。
足利義満が明徳3年(1392)に創建。夢窓疎石を開山とし京都五山の第2位となった。創建当時は境内北の上御霊神社のあたりまで広がっていたが、応仁・文明の乱のほか度重なる火災や戦乱で焼失と復興を繰りかえした。重要文化財に指定されている法堂も4度の焼失を経て、慶長10年(1605)豊臣秀頼の寄進をうけ5度目に再建された建物。現存最古の法堂の天井には狩野光信筆『蟠龍図』が描かれ、決まった場所で手を打つと共鳴音が響くことから『鳴き龍』として知られている。春(3月下旬~6月上旬)と秋(9下旬~12月上旬)の2回の特別拝観時、春・秋には、法堂、方丈、浴室または開山堂を見学できる。
幕末動乱の日々、孝明天皇は崇徳[すとく]天皇の御神威を仰がれようとしたがまもなく崩御。明治天皇は維新の礎を固めるために、父帝・孝明天皇の御意思を継がれて明治元年(1868)に御創建し、続いて淳仁天皇を合祀した神社。この地は蹴鞠[けまり]の宗家飛鳥井[あすかい]家の邸宅跡で、精大明神(蹴鞠の神)が祀られており、サッカーをはじめ、スポーツ関係者の参詣も多い。7月7日の精大明神祭(七夕祭)には「小町をどり」と「蹴鞠」が奉納される。
平安遷都にあたり、悲運の死を遂げた早良親王[さわらしんのう]の御霊を鎮めるため、桓武天皇が興したと伝わる。のちに、いずれも無念の死を遂げた井上内親王、他戸[おさべ]親王、藤原吉子ら6人と、火雷神を合祀、八所御霊[はっしょごりょう]とした。西の楼門をくぐると拝殿の奥に本殿が立ち、境内には応仁の乱発祥地の碑もある。心しずめのお社として知られている。
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