
石川啄木歌碑
渋民公園内にあり、「やはらかに柳あをめる 北上の 岸辺目に見ゆ 泣けとごとくに」と刻まれた石碑。鶴飼橋の上の小高い丘に立つ。大正11年(1922)に完成した全国第1号の啄木の歌碑だ。渋民の青年たちによって建てられ、高さは4.5m。
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渋民公園内にあり、「やはらかに柳あをめる 北上の 岸辺目に見ゆ 泣けとごとくに」と刻まれた石碑。鶴飼橋の上の小高い丘に立つ。大正11年(1922)に完成した全国第1号の啄木の歌碑だ。渋民の青年たちによって建てられ、高さは4.5m。
盛岡八幡宮の南、焼失した宗龍寺跡にできた羅漢公園に安山岩を丸彫りした石仏が21体ある。16体の羅漢と5体の五智如来がコの字型に並ぶ。江戸時代後期の天明、天保などの大飢饉で亡くなった人々を供養するため、嘉永2年(1849)に造られた。
『遠野物語』の話し手・佐々木喜善が住んだ家。喜善に会うために柳田國男など著名な人物も訪れていた。昔、山口地区の人々は駄賃付け(馬子)を生業とし、その見聞を持ち込むなど、昔話・伝説が流入したため、語り継がれるのに格好の場所だった。現在も佐々木家が生活している。
約250年前に東北地方は大飢饉に襲われた。心を痛めた大慈寺の義山和尚が、天明3年(1765)に犠牲者の冥福を祈り、読経しながら自然の花崗岩に羅漢像を彫ったといわれている。近くには、社前の木に左手で赤い布を結べたら縁が結ばれるという卯子酉[うねどり]様(神社)がある。
遠野の町外れにしばし見受けられるキツネの関所のひとつで、男性が通り掛かると誰もが、娘に化けたキツネにだまされる、という言い伝えがある。
みちのく民俗村内にある伊達藩(仙台藩)時代の典型的な農家住宅。北上市内に残されていた伊達藩の村役人を務めた大肝入[おおきもいり]の住宅を移築・復元したもので、通称は「中村屋敷」。主屋は江戸中期の享保13年(1728)建築で、桁行21.3m、梁間10.8mの茅葺き、寄棟造の直屋[すごや]。建物の半分近くは土間。当時の様子を記した普請帳が残る。主屋前に立つ享保5年(1720)建築の茅葺きの薬医門とともに国指定重要文化財となっており、岩手県内の建築年代の明らかな古民家の建物の中では最も古いもの。
中尊寺東方の高館は、藤原秀衡を頼って落ち延びた源義経の館があった場所。山頂の義経堂には、義経公の尊像が安置されている。芭蕉が「夏草や兵共が夢の跡」と詠んだ地でもあり、入口の階段を上った右側には芭蕉や曽良[そら]の句碑が立つ。眼下に衣川、北上川も眺望できる。春から初夏にかけてはツツジが美しい。
国指定史跡・達谷窟毘沙門堂西側の大岩面壁に、11世紀に彫られたといわれる大磨崖仏[だいまがいぶつ]。高さ約16.5m、顔の長さ約3.6mもの貴重なもので、「北限の磨崖仏」として有名だ。明治29年(1895)、胸から下が崩落。風化が激しく、現在は顔のみが残る。
東日本大震災の影響で甚大な被害が出た田老地区。その田老地区に建つ6階建ての「たろう観光ホテル」は、国の支援を受ける津波遺構に認定された建物。2階部分までは鉄骨がむき出しになり、高さ約17mという津波の恐ろしさを物語っている。宮古観光文化交流協会は「学ぶ防災ガイド」(要予約)として防潮堤見学後、「たろう観光ホテル」でこのホテルからオーナーが撮影した津波のDVDを観賞することができる。
世界とつながる北緯40度線上にある、地球儀型のシンボル塔。正面に近づくと地球儀が回転し、世界の北緯40度線上の都市とのつながりを表している。地球全体の繁栄と、平和への願いが込められている。
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