
観瀾亭・松島博物館
伊達政宗公が豊臣秀吉から拝領した伏見桃山城の一棟を、2代藩主忠宗公が江戸より移築したもの。歴代藩主が納涼・観月の場とした観瀾亭は「月見御殿」とも呼ばれており、秋には毎年お月見会を開催。室内の極彩色の障壁画は重要文化財に指定されている。
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伊達政宗公が豊臣秀吉から拝領した伏見桃山城の一棟を、2代藩主忠宗公が江戸より移築したもの。歴代藩主が納涼・観月の場とした観瀾亭は「月見御殿」とも呼ばれており、秋には毎年お月見会を開催。室内の極彩色の障壁画は重要文化財に指定されている。
多賀城南門跡のすぐ近くに立つ。高さ約2m(地上部分)、最大幅103cmの奈良時代の石碑で、当時の主要な国界から多賀城までの距離、大野東人[おおののあずまひと]が多賀城を創建したことなどが刻まれている。群馬県多胡碑[たごひ]、栃木県那須国造碑[なすのくにのみやつこのひ]とともに、日本三古碑の一つに数えられる。国の重要文化財に指定されているほか、日本遺産にも認定されている。
延宝5年(1677)頃、岩出山伊達家2代宗敏の隠居所として、現在地に建てられたといわれる。寄棟茅葺き書院造りの簡素な佇まいで、後には学問所として使用された。庭園は、仙台藩茶道頭・石州流三代清水道竿[どうかん]の作庭。岩出山城本丸の断崖を借景として、池中に島を配した廻遊式池泉庭園だ。樹齢300年以上の樹木もあり、四季折々の変化が楽しめる。国史跡・名勝。
大正19年(1591)、伊達政宗は岩手沢を岩出山と改め、慶長6年(1601)治府を移すまで岩出山城を居城とした。現在は公園として整備され、空堀や門跡などが当時の遺構として残されている。9月第2日曜日とその前日には政宗公まつり、11月15・16日には秋の互市、11月下旬には岩出山バルーンフェスティバルをそれぞれ開催。昭和39年(1964)、仙台城跡から移された政宗平和像も立つ。
8世紀から10世紀ごろの古代城柵跡。東西約1400m、南北約850mの範囲を築地や土塁で区画。当時の陸奥国府だった多賀城跡を上回り、古代城柵において最大級の規模を誇る。遺跡の北西部に位置する愛宕山地区は史跡公園になっており、春にはソメイヨシノが咲き乱れ、隠れた花見の名所になっている。
七ケ宿に語り継がれる伝説のひとつ。江戸時代、秋田佐竹藩の殿様が参勤交代の際に滑津で美しい村娘を見初めたが、再度訪れた時には娘は亡くなっていた。殿様は大変悲しみ、娘をしのんで振袖地蔵を作ったといわれる。
町内の寺池には白壁に茅葺き、瓦葺きのどっしりした構えの武家屋敷が点在。町内17、8軒、寺池周辺6、7軒。現在も住居として使用されているところが多く、ほとんど一般公開されていない。江戸時代中期に建てられた登米伊達藩の家臣鈴木家の屋敷・春蘭亭は町に寄贈され保存修復後、喫茶コーナーを設け平成2年(1990)にオープン。「春蘭亭」の名の由来はこの地に自生する春蘭を加工した「春蘭茶」を提供することから名付けられた。春蘭茶セット500円。
宝暦年間(1751~64)、村田町などの仙南地方は、紅花の集散地として商都の賑わいをみせ、村田商人の名は広く知られていた。そのころの面影が残る家並みが、町の中心部の旧街道沿いに続いている。ひときわ豪壮な外観を誇る店蔵(蔵造りの店舗)は、かつての村田商人たちがいかに繁栄したかを物語っている。
紙問屋や雑貨商などを営んでいた豪商・渡辺家の屋敷。土蔵造の店蔵は明治中期、母屋と金庫蔵は大正12年(1923)に建てられたもので、和洋折衷の造りが特徴。なかでも、玄関欄間のベネチアンガラスや店蔵の棚階段は見もの。
白石城の北、三の丸外堀を兼ねた沢端川の流れに沿い、城下町時代の面影を伝える武家屋敷が立つ。片倉家中旧小関家は260余年前の古建築であると伝えられ、屋敷内の見学ができる。正座敷などが保存されている。所要20分。
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