
となみ散居村ミュージアム
砺波平野の散居村は、稲作文化の歴史が作り出した景観のひとつと言われている。ミュージアムの敷地内には、散居村の資料・写真を通じて学べる「情報館」、カイニョと呼ばれる屋敷林に囲まれ、昔ながらの暮らしを体験できる「伝統館」、「アズマダチ」という伝統的家屋の新しい居住空間を提案する「交流館」、暮らし・文化がわかる民具を展示する「民具館」があり、散居景観や伝統文化の魅力にふれることができる。
- 「砺波駅」から徒歩25分
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砺波平野の散居村は、稲作文化の歴史が作り出した景観のひとつと言われている。ミュージアムの敷地内には、散居村の資料・写真を通じて学べる「情報館」、カイニョと呼ばれる屋敷林に囲まれ、昔ながらの暮らしを体験できる「伝統館」、「アズマダチ」という伝統的家屋の新しい居住空間を提案する「交流館」、暮らし・文化がわかる民具を展示する「民具館」があり、散居景観や伝統文化の魅力にふれることができる。
黒部ダム駅と黒部ダムを結ぶダム連絡通路の出入口脇にある。昭和31年(1956)から昭和38年(1963)の黒部ダム建設中、大町トンネル(現・関電トンネル)の大破砕帯などの困難を極めた工事で犠牲になった171名の霊を弔う慰霊碑。「六体の人物像」は彫槊家の松田尚之氏が手がけたもので、殉職者の名前が刻まれたプレートが掲げられている。
鳥取の里は、日本最古の歴史書『古事記』の中で、県内で最初に登場する地名。大島絵本館の横に八幡社があり、八幡社境内に「高志の国 鳥取の里」と刻まれた石碑が立つ。
飛鳥時代後期の須恵器や瓦を製作した工房、窯などが発掘され、当時の窯業生産の全容を知ることができる貴重な遺跡として、国指定史跡になっている。北陸最古の瓦陶兼業窯跡は半地下式の登窯で、長さ7m・幅2m。遺跡の解説や出土品を紹介する資料館・飛鳥工人の館もある。
この流刑小屋は御縮小屋といい、江戸時代に加賀藩の流刑地として8ケ所あった流刑小屋の一つ。昭和38年(1963)の豪雪で倒壊したため、現在あるのは、昭和40年(1965)に復元されたもので、間口2.8m、奥行3.6mの小さな茅葺き造り。入口の柱には、20cm角の食事差し入れ口が開けられ、ここから食料を罪人に与えていた。
相倉伝統産業館。相倉民俗館から小道を少し下った旧中谷家住宅を利用。屋内では、かつての主要産業であった塩硝[えんしょう]や養蚕の道具類などや、相倉地区で盛んに製造されていた和紙の生産工程や道具、和紙工芸品の数々が見学できる。和紙の染紙や和紙の造花など、多岐にわたる工芸品に目をみはる。
立山信仰登山の基地となった、古い宿泊・礼拝施設(国指定重要文化財)で、信者はここから雄山山頂の神社を目指した。日本最古の山小屋ともいわれ、最初の建物ができたのは、少なくとも15世紀末より以前と考えられている。建物は2棟に分かれ、北室は享保11年(1726)、南室は明和8年(1771)に再建されたものを、1992~94年の解体調査後に復元した。屋根は切妻造で、柱はタテヤマスギの太い角材を等間隔に並べた堅牢な構造。内部には解体調査で出土した陶器などの貴重な遺物を展示。
相倉民俗館は、旧尾崎家住宅をそのままの形で利用。内部は、土間、居間、寝室などが田の字型に仕切られた典型的な合掌造家屋の様式になっている。展示は、自給自足の生活を続けてきた村人たちの民具や農具が中心。屋根裏部屋では、釘を一切使用せず、縄やネソと呼ばれる木で組み立てた合掌造の構造が見られる。合掌人[びと]の昔の生活を今に伝える歴史民俗資料館。
室堂平の西端、雄山を望む岩場に口を開けて並ぶ2つの洞窟。玉殿岩屋は立山開山伝説の聖地で、熊と白鷹を追って来た佐伯有頼[さえきありより]に、熊が阿弥陀如来に、白鷹が不動明王となって現れ立山の開山を命じた場所とされている。立山室堂が建設される前は、立山修験道の行者の宿泊に使用されたともいわれる。洞窟の天井は低く、奥行きも4m程度と狭く、小さな石仏が数体安置されている。すぐ隣にある虚空蔵窟と呼ばれる洞窟も同じように使用されたものといい、内部には石地蔵や十六羅漢が十数体祭られている。この2つの洞窟へは、滑りやすい登山道の下りなので足元に注意を。
源氏と平家が激しく戦った倶利伽羅峠は石川と富山を結ぶ重要な街道筋。国指定の歴史国道で、いにしえの旅人に思いを馳せてみては。
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