
山口市菜香亭
明治10年(1877)に開業し、地元出身の歴代首相や大臣経験者や文人などが多く利用、山口の迎賓館とよばれた元料亭・祇園菜香亭を移築し再現した施設。
- 「上山口駅」から徒歩13分
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明治10年(1877)に開業し、地元出身の歴代首相や大臣経験者や文人などが多く利用、山口の迎賓館とよばれた元料亭・祇園菜香亭を移築し再現した施設。
山口県の最北端にポツンと浮かぶ小島。おすすめ来島時期は波が比較的穏やかな4~10月。島内は公共交通機関がないので、無料の電動アシスト自転車(要予約:0838-23-3311)を利用して散策するのがおすすめ。昔ながらの景色や気さくに話してくれる島民に出会えるかも。
わが国の初代内閣総理大臣・伊藤博文が、9歳の時に山口県東部の光市から萩市へ移り住んだのち、14歳で伊藤家に入家し、本拠とした家(史跡)。博文は約13年間をこの家で過ごし、17歳の時、松下村塾に通って吉田松陰の教えを受けた。隣接地には伊藤が東京郊外に建てた別邸が移築・公開されている。
敵を迷わせ、あるいは追いつめやすいように工夫して造られた鍵曲。別名「追廻し筋」ともよばれ、道が鍵の手に曲がり、左右を高い土塀で囲むなど見通しが悪くなっているのが特徴だ。藩政時代に多くの重臣たちの邸宅があった堀内や平安古などで見られる。一帯は重要伝統的建造物群保存地区に指定されており、近くに国の重要文化財の口羽家住宅がある堀内エリアの鍵曲は、道がカラー舗装されているため、往時を彷彿とさせる。
大正5年(1916)、当時の建築技術の粋を集めて造られた旧長州藩主の庭園と邸宅。庭園が約8万4000平方m、建物が4000平方mという広大な屋敷だ。庭園(名勝)は瓢箪池の周囲に石組みや回遊路、あずまやなどを配した池泉回遊式庭園。邸宅は総檜の書院造で、重要文化財である。一角にある毛利博物館には雪舟筆『紙本墨画淡彩四季山水図』、『古今和歌集第八』など国宝4件7点と、重要文化財9件約8600点を含む文化財約2万点が収蔵されている。
松陰神社境内にあり、吉田松陰の叔父、玉木文之進[たまきぶんのしん]が開いた私塾。もともとは松陰の実家の物置だった建物で、和室2間に土間が付いただけの簡素なもの。松陰が指導にあたったのは、謹慎していた幽囚室から通算2年余りだが久坂玄端[くさかげんずい]、高杉晋作、伊藤博文など、明治維新の原動力となった逸材を多く輩出した。
港の警備、見張りのほか、越荷会所であつかう積荷の検査や税金の徴収を行っていた番所で、寛永9年(1632)に長島南西端の四代に置かれていたが、番所の老朽化と上関港の発展に伴い、正徳元年(1711)に朝鮮通信使のために建てた仮番所を公儀に願出、永久番所として四代から上関に移した。平成8年(1996)、高台である当時熊毛南高等学校上関分校(現在は廃校)の運動場横に移築された。山口県指定有形文化財である。
吉田松陰の父・杉百合之助の末弟・玉木文之進の家。松下村塾は文之進が天保13年(1842)に近くの師弟を集め、ここで学問を教えたのが始まりで、邸内には松下村塾発祥の地碑が立つ。
指月公園内にあり、もと三の丸にあった13代藩主毛利敬親の別邸・花江御殿の茶室「自在庵」を移したもの。入母屋造、茅葺きの風雅な建物で、敬親は維新の志士たちとここで密議を交わしたといわれている。
明治12年(1879)に建てられた、山口県内最古級の擬洋風建築。外国との海上交通で栄えた地ならではの凝った造り。窓にはフランス製のステンドグラス、3階の壁には唐獅子牡丹の漆黒彫刻、4階天井には鳳凰漆黒彫刻が残る。併設の上関町郷土史学習館では四階楼に関する資料の展示のほか、上関町の歴史をパネルや映像で紹介している。
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