
堀内鍵曲
敵を迷わせ、あるいは追いつめやすいように工夫して造られた鍵曲。別名「追廻し筋」ともよばれ、道が鍵の手に曲がり、左右を高い土塀で囲むなど見通しが悪くなっているのが特徴だ。藩政時代に多くの重臣たちの邸宅があった堀内や平安古などで見られる。一帯は重要伝統的建造物群保存地区に指定されており、近くに国の重要文化財の口羽家住宅がある堀内エリアの鍵曲は、道がカラー舗装されているため、往時を彷彿とさせる。
- 「玉江駅」から徒歩12分
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敵を迷わせ、あるいは追いつめやすいように工夫して造られた鍵曲。別名「追廻し筋」ともよばれ、道が鍵の手に曲がり、左右を高い土塀で囲むなど見通しが悪くなっているのが特徴だ。藩政時代に多くの重臣たちの邸宅があった堀内や平安古などで見られる。一帯は重要伝統的建造物群保存地区に指定されており、近くに国の重要文化財の口羽家住宅がある堀内エリアの鍵曲は、道がカラー舗装されているため、往時を彷彿とさせる。
江戸屋横町にある、木戸孝允(桂小五郎)の生家。当時としては珍しい木造2階建て桟瓦葺きで、14室もの部屋があり、父が藩医を務めていたために患者用と来客用の2つの玄関がある。孝允は天保4年(1833)に誕生し、約20年間をここで過ごした。誕生の間や勉強部屋などがあり、勉強部屋では後年、名筆家として知られた孝允の少年時代の習字も見られる。国指定史跡。江戸屋横町のある旧町人地は、世界遺産「明治日本の産業革命遺産」の構成資産の一つ「萩城下町」の一部となっている。
平成22年(2010)10月に、萩市では初めての高杉晋作の銅像が登場。以来、多くの観光客、幕末ファンが立ち寄る公園となっている。
指月公園内にあり、もと三の丸にあった13代藩主毛利敬親の別邸・花江御殿の茶室「自在庵」を移したもの。入母屋造、茅葺きの風雅な建物で、敬親は維新の志士たちとここで密議を交わしたといわれている。
松陰神社境内にあり、吉田松陰の叔父、玉木文之進[たまきぶんのしん]が開いた私塾。もともとは松陰の実家の物置だった建物で、和室2間に土間が付いただけの簡素なもの。松陰が指導にあたったのは、謹慎していた幽囚室から通算2年余りだが久坂玄端[くさかげんずい]、高杉晋作、伊藤博文など、明治維新の原動力となった逸材を多く輩出した。
慶長9年(1604)に毛利輝元が築いた城。指月山麓の平城[ひらじろ]と山頂の山城[やまじろ]を併せた平山城で、本丸には5層の天守があったが、明治7年(1874)にすべての建物を解体。現在は石垣と堀の一部が昔の姿をとどめている。旧本丸跡は指月公園として整備されており、春は600本余の桜の名所として親しまれている。萩でしか見ることのできない珍しい桜、天然記念物ミドリヨシノは必見。
吉田松陰の父・杉百合之助の末弟・玉木文之進の家。松下村塾は文之進が天保13年(1842)に近くの師弟を集め、ここで学問を教えたのが始まりで、邸内には松下村塾発祥の地碑が立つ。
江戸時代の牢獄跡で、野山獄が士分の者、岩倉獄が庶民用だった。安政元年(1854)、下田からアメリカに密航を企てて失敗した吉田松陰は野山獄に、門弟の金子重輔[かねこしげのすけ]は岩倉獄につながれた。岩倉獄跡には、重輔絶命の碑と松陰が重輔に贈った詩碑が立つ。
大内氏28代教弘[のりひろ]をたよって山口へ来た画聖・雪舟が一時期過ごした庵の跡。国宝に指定されている雪舟の水墨画『四季山水図』(防府の毛利博物館所蔵)はここで描かれたといわれている。現在の建物は明治37年(1904)に郷土史家たちが古材を集めて復元したもの。
中也の代表作の一つである『童謡』の詩碑が立つ。書は中也の自筆原稿から写し取ったものだ。すぐ隣には、湯田温泉で一時期を過ごした種田山頭火のユニークな句の石碑も建てられている。これらの碑が面した錦川通りは、湯田温泉のかつてのメインストリートにあたる。
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