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明治時代、まるいち土佐紙株式会社が商談などに使用していた接待施設。茶室を思わせる建物は幕末から明治初期のもの。庭にある8基の碑はいの町の紙業界の功労者を顕彰したものだ。
屋島の檀ノ浦の戦いで、天皇の身代わりを立て安徳天皇が落ち延びて来たのち、無念の死を遂げたという伝承の横倉山中にある。第3駐車場から徒歩約40分のところにあるとても立派なもので、すぐ近くには4億年前の石灰岩から成る断崖の「馬鹿だめし」と、その上に建つ安徳天皇を祭神とする「横倉宮」などのみどころあり。
近藤長次郎(1838-1866)は天保9年(1838)に餅菓子商「大里屋」の長男としてこの地に生まれる。文久2年(1862)、坂本龍馬と同様に勝海舟の門に入り、神戸海軍操練所を経て長崎で薩摩藩の周旋役として活躍する。長州藩のために薩摩藩名義でユニオン号の購入に尽力し、薩長同盟成立に大きく貢献するも、英国留学を計画していたことを責められ自刃したとされる。同郷であり、仲の良かった龍馬は嘆いたという。
土佐勤王党の盟主、武市半平太の旧宅。もとはか藁葺きで6室あり、8畳の客間の柱には半平太が字を刻んだあとがある。個人宅なので、原則敷地内の公開はしていない。近くに半平太と妻富の墓が寄り添うように建っている。武市半平太旧宅と墓は昭和11年(1936)9月に国の史跡に指定されている。
和洋折衷様式によるモダンな建物で、県内唯一の木造り芝居小屋。内部見学は自由。
天保5年(1834)に生まれた、三菱グループの創業者岩崎彌太郎の生家。生け垣を巡らした屋敷内に茅葺の母屋や、2階建て土蔵が残る当時の代表的な中農の造り。土蔵の鬼瓦には、岩崎家の紋で、後の三菱のマークの原型といわれる三階菱が見られる。また、庭には少年時代に彌太郎が造ったという日本列島の形をした石組みの石庭がある。
土居廓中にある40戸ほどのなかで、唯一、内部見学のできる武家屋敷。天保元年(1830)頃の建築で、玄関を狭く設計して敵が刀を振り回しにくくするなど、武家屋敷独特の特徴がそこかしこに見られる。
乱礁遊歩道の入口に立つ像。現在の安芸郡北川村に生まれた慎太郎は、陸援隊隊長として幕末に活躍した尊攘[そんじょう]の志士。慶応3年(1867)11月15日、海援隊隊長の坂本龍馬と共に、京都の近江屋で暗殺された。このとき慎太郎30歳。その目線は、遠く太平洋に注がれている。
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