
門倉岬
種子島の最南端に断崖状に突き出した岬。天文12年(1543)、この岬に1隻の異国船が漂着。この船に乗っていたポルトガル人が鉄砲を所持していたことから、日本に鉄砲が伝わることになる。岬周辺は公園として整備され、鉄砲伝来紀功碑と種子島最南端の地の碑に加え、南蛮船を模した造りの展望台も設けられている。なお、岬に至る直線道路の愛称は「海中ロード」。まるで海に向かって直進していくかのような気分になることからの命名といわれる。
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種子島の最南端に断崖状に突き出した岬。天文12年(1543)、この岬に1隻の異国船が漂着。この船に乗っていたポルトガル人が鉄砲を所持していたことから、日本に鉄砲が伝わることになる。岬周辺は公園として整備され、鉄砲伝来紀功碑と種子島最南端の地の碑に加え、南蛮船を模した造りの展望台も設けられている。なお、岬に至る直線道路の愛称は「海中ロード」。まるで海に向かって直進していくかのような気分になることからの命名といわれる。
小説『死の棘』などで知られる島尾敏雄を讃える碑。終戦の直前、この碑が立つ呑之浦地区には震洋隊の特攻隊の基地があり、その隊長として任に当たっていたのが若き日の島尾敏雄。のちに彼は、発進間際で終戦を迎えたこのときの極限状況の体験を『出発は遂に訪れず』などの作品に著している。文学碑の周囲には遊歩道が整備されている。
喜界島の集落には、サンゴの石垣がよく見られる。台風や潮から家々を守るために築かれた、先祖の知恵の産物だ。島の南東部にある阿伝集落は、特によく石垣を残している。サンゴの石垣は毒蛇ハブの棲み家となりやすい欠点があるが、喜界島にはハブがいないため保存状態がいい。
俊寛は平安後期の僧。治承元年(1177)の鹿ケ谷の陰謀が失敗し、「鬼界ケ島」に流されたという。これは喜界島のことではないかと思われ、ここで発見された墓は島では俊寛の墓とされている。
種子島には、さまざまな「漂着史」が残る。この碑は、島の南端、門倉岬から竹崎漁港まで続く前の浜海岸が舞台の「漂着」を記念している。明治27年(1894)4月24日の夜、香港へ向かう途中の英国帆船ドラメルタン号が暴風雨のために前之浜海岸に漂着。これを発見した集落の人々は4カ月かかった修理の間、船員たちを厚くもてなしたという。そのとき、お礼にもらった鶏を「インギー鶏」とよぶが、これは、当時イギリス人を「インギー」とよんでいたためとか。
西郷隆盛(号は南洲)が幕府からの追及を逃れるため奄美に身を隠したのは安政6年(1859)。この時潜居(潜み住むこと)した地に、西郷が設計した木造家屋が復元され、自筆の書、枕などとともに公開されている。ここで暮らした3年の間に、西郷は愛加那[あいかな]という娘と結ばれ、2人の子をもうけたが、召還命令が下ると、妻子を残して島を離れざるを得なかった。
昭和30年代頃まで島に建ち並んでいた茅葺き民家や琉球式の赤瓦民家が復元され、古き良きのどかな与論の風景を彷彿とさせる。建物内には昔の民具が展示されており、所蔵民具のうち1094点が町指定有形民俗文化財となっている。見学者には、経営者の菊さん一家が丁寧に施設内をガイドし、お茶請けのサービスを提供している。また草木染めや芭蕉布コースター織りといった体験教室も行っているので、ぜひ挑戦して島の文化に触れてみては。ガイド所要時間20分。
肥後藩との国境の要地に、1600年前後に設けられた関所。江戸時代、独自の封建制度を確立していた薩摩藩は人の往来を厳重に取り締まったため、この関所の厳しさは全国にも知られていた。当時を偲ばせる古井戸も残っている。
亜熱帯の植物が四季折々の花を咲かせる公園。小高い丘の上にあり、園内から市街地を一望できるこの公園の名は、鉄砲伝来にまつわる悲劇のヒロイン・若狭から付けられた。公園内には日本とポルトガルの友好を記念して建てられた、日ポ修好記念之碑がある。
昭和57年(1982)上皇上皇后両陛下(当時皇太子、同妃両殿下)が種子島にお出ましの折お詠になられた、お歌の御製碑がある。ロケット打ち上げ見学場所にもなっており、高台からの眺めは絶景だ。
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