
日光東照宮 二ノ鳥居
東照宮境内、御水舎と経蔵の間にある、高さ6m、青銅製の鳥居。寛永の大造替の際に、家光が建立した。鳥居の下部には仏教様式に多く見られる蓮華が刻まれ、神仏習合の地、日光らしい。また、この辺りから眺める境内は、陽明門を正面に、美しく左右均等に配された見事な構図で、素晴らしい景観を生み出している。
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東照宮境内、御水舎と経蔵の間にある、高さ6m、青銅製の鳥居。寛永の大造替の際に、家光が建立した。鳥居の下部には仏教様式に多く見られる蓮華が刻まれ、神仏習合の地、日光らしい。また、この辺りから眺める境内は、陽明門を正面に、美しく左右均等に配された見事な構図で、素晴らしい景観を生み出している。
二荒山神社拝殿、渡殿[わたりでん]から続く、元和5年(1619)、徳川2代将軍秀忠により、造営寄進された、安土桃山様式の優美な建造物。日光山内では最古の、現存する建築物でもある。内陣と外陣に分かれており、内陣には祭神が祭られている。拝観不可。
東照宮内、拝殿(国宝)の天井にひしめき合う100匹の龍の絵は、狩野探幽[かのうたんゆう]とその一門によって描かれたもの。一匹ずつすべての龍の図柄が違えて描かれている。ちなみに龍は、3代将軍家光の干支でもある。
延暦3年(784)、勝道上人が創建。二荒山大神を祭る。男体山山頂にある奥宮と山内にある本社の中間に位置するので、中宮祠の名前が付いた。本殿や唐門のほか数多くの建造物があり、本殿右側には山頂参拝への登拝門がある。山頂奥宮までの登山(4月25日~11月11日の間のみ可)は往復約8時間。
唐門と透塀に囲まれた東照宮の中心となる権現造の建物。拝殿の天井には百間百種の龍[ひゃくまひゃくしゅのりゅう]、欄干には土佐派の絵師、土佐光起[とさみつおき]筆の三十六歌仙の額が掲げられている。拝殿と本殿を石ノ間がつないでおり、一般の参拝は本殿の手前の石ノ間まで。
延暦9年(790)、勝道[しょうどう]上人が日光に神霊を求めて初めて小さな祠を建てた、二荒山[ふたらさん]神社発祥の地。社殿は江戸時代の再建だが、本殿奥の扉を開いて遠くご神体の山を拝むという山岳信仰の形式をとどめている。本殿、唐門・透塀は重要文化財。
輪王寺三仏堂の後方、相輪とうの前に立つ一対の銅燈籠。慶長9年(1604)、家康公により中国産生糸の独占輸入と販売を許可された特権的な商人集団のことを「糸割符仲間」といい、慶安元年(1648)4月、家康公の33回忌に彼らにより奉納されたのがこの糸割符燈籠。当時は商人ゆえ、東照宮神前奉納が許可されずここに据え置かれたのだが、それでも民間奉納では破格の扱いであったという。
輪王寺所管の堂塔は神仏習合の地である山内一円に散在している。平安時代に朝廷から一山の総号として満願寺[まんがんじ]の名を賜り、後に、円仁[えんにん]の来山により天台宗となった。鎌倉時代には皇族座主が始まり、以後も日光三所権現信仰の中心として栄えた。比叡山延暦寺[ひえいざんえんりゃくじ]、東叡山寛永寺[かんえいじ]と並び、天台宗三本山の一つに数えられ、大般涅槃経集解59巻は国宝。明治時代の神仏分離令によって、一時は満願寺に復称となったが、明治16年(1883)に寺号復活し、今日の輪王寺になった。
男体山(二荒山)の主神大己貴命[おおなむちのみこと]と、女峰山の神、田心姫命[たごりひめのみこと]と、太郎山の神、味耜高彦根命[あじすきたかひこねのみこと]を祀る。勝道上人の開創とされ中宮祠は中禅寺湖畔に、奥宮は男体山頂上にあり、本宮神社、滝尾神社は別宮。もとは日光三社権現の一つだったが、明治の神仏分離令によってここを本社にし、二荒山神社と称するようになった。南北朝期の大太刀など国宝に指定される宝物も所蔵。拝殿の左手、神苑には、化燈籠[ばけとうろう]や大国殿などがある。
輪王寺大猷院は拝殿・相之間・本殿が一つの棟になる権現造になっている。なかに入ると、まず、広々とした拝殿で、狩野探幽[かのうたんゆう]、狩野永真安信[かのうえいしんやすのぶ]筆の唐獅子の図がある。その奥が相之間。そこからさらに進むと、本殿に至る。ここは一段床が高くなっている仏殿様式。正面御宮殿には大猷院殿(家光公)の御尊像を祀っている。数多くの彫刻が施され、金をふんだんに取り入れていることから、金閣殿ともよばれている。
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