乙女の像
十和田湖のシンボル。高村光太郎晩年の作品で、向き合う2人の女性のブロンズ像の顔は、智恵子夫人をイメージしたものという。遊覧船乗り場から遊歩道がつづく。
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十和田湖のシンボル。高村光太郎晩年の作品で、向き合う2人の女性のブロンズ像の顔は、智恵子夫人をイメージしたものという。遊覧船乗り場から遊歩道がつづく。
旧制弘前高等学校時代に、太宰治が下宿をしていた家(旧藤田家住宅)。大正時代の和風住宅で、太宰の部屋は2階奥の出窓と縁側のある6畳間。実際に使われていた文机や茶だんすなどが残されており、太宰が生活していた雰囲気を感じることができる。見学自由。
二代藩主津軽信枚が弘前城の南西(風水でいう裏鬼門の方角)の砦として、慶長15年(1610)に津軽一円の主要寺院をこの地に集め、曹洞宗33カ寺が連なる。
遮光器土偶(重要文化財)をはじめ、縄文時代晩期の土器や石器・漆器などが発掘された遺跡。出土した土器や土偶に代表される縄文時代晩期の優れた物質文化は、「亀ケ岡文化」と呼ばれている。現在は遮光器土偶の形をした石像が立つ。近くの縄文前期~中期の田小屋野貝塚からも土器やベンケイ貝製の貝輪などが出土し、ともに史跡に指定されている。
三戸城は、三戸南部氏により戦国時代(16世紀中頃)に築城され、石垣や堀跡、土塁などの遺構が多く残り往時を偲ばせている。また、城郭を模した三戸城温故館や歴史民俗資料館があり、歴史ファンからも人気がある。春にはソメイヨシノ、ヤエザクラ、ヤエベニシダレなど定番の桜に加え、黄色の花が特徴のギョイコウが楽しめる青森県南髄一の桜の名所であり、県内外から訪れる人々の憩いの場となっている。令和4年(2022)3月15日に国史跡指定を受けた。
京都の無鄰庵[むりんあん]、清風荘とともに明治時代作庭の三名園の一つに数えられる国指定名勝の庭園。代々この地の大庄屋を勤めていた清藤[せいとう]家二十四代盛美[もりよし]が、小幡亭樹を招いて造営した大石武学流の池泉廻遊式庭園で、明治35年(1902)から9年を費やして作庭された。庭園と融和して美しい盛美館は、明治41年(1908)に二十五代辨吉[べんきち]が、庭園を眺めるために建てた和洋折衷様式の建物。内部の蒔絵が見事な御宝殿は清藤家の霊廟(位牌堂)となっている。
弘前城北門(亀甲門)の真向かいにあり、仲町伝統的建造物群保存地区に隣接している。津軽の豪商を代表する江戸時代の建築物として貴重な遺構だ。今もたばこ、地酒などを商っている。
昭和24年(1949)、東北町で高さ1.5m、幅70cm、真ん中に「日本中央」と刻まれた石が発見された。平安時代、坂上田村麻呂[さかのうえのたむらまろ]が刻んだという説がある。「日本中央の碑」歴史公園保存館で展示。
淋代海岸にある広場。昭和6年(1931)、アメリカ人飛行士2人を乗せ淋代海岸を飛び立ったミス・ビードル号は、41時間10分の飛行で無事にワシントン州ウェナッチ市に着陸。三沢の住民たちの協力を得て、世界初の太平洋無着陸横断飛行に成功した。これを記念し、太平洋無着陸横断飛行記念碑と、ミス・ビードル号の実物大模型がある。360度パノラマを楽しめる展望台も設置。
文政10年(1827)に野辺地の廻船問屋、野村治三郎によって建てられた。盛岡藩の海の窓口としてにぎわっていた野辺地湊に、夜間入港する北前船への目印となっていた。
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