
田丸城跡
南北朝動乱期の延元元年(1336)、南朝側の北畠親房が足利氏との戦いのために築いたのが始まり。以来、伊勢国の軍事拠点として中世まで貴重な役割を果たし、江戸時代には周辺に城下町が発展していった。しかし、明治2年(1869)、版籍奉還に先立って紀州藩に返上を命ぜられ、廃城となった。現在は移築された富士見門のほか、本丸、北の丸、二の丸のあった石垣が残り、往時の様子を伝えている。
- 「田丸駅」から徒歩10分
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南北朝動乱期の延元元年(1336)、南朝側の北畠親房が足利氏との戦いのために築いたのが始まり。以来、伊勢国の軍事拠点として中世まで貴重な役割を果たし、江戸時代には周辺に城下町が発展していった。しかし、明治2年(1869)、版籍奉還に先立って紀州藩に返上を命ぜられ、廃城となった。現在は移築された富士見門のほか、本丸、北の丸、二の丸のあった石垣が残り、往時の様子を伝えている。
創業は宝暦6年(1756)の問屋で、今も現役の蔵は築200年以上前のもの。旅人の世話をする伊勢神宮の御師の家であったため、江戸時代の旅の案内本や錦絵、陶器などが残る。伊勢まちかど博物館として公開。手押しトロッコは、64mのトロッコレールが倉庫へ続く。
南北朝時代に設立された、岡田文庫を前身とする内宮の学舎。貞享3年(1686)に再興され、元禄3年(1690)に現在地へ移転。書庫・講堂・塾舎などがあり、神宮に参拝した学者たちが講義をしたり、著書を献納してきた。昭和29年(1954)に史跡に指定。所蔵図書は現在、神宮文庫に移されている。4月と9月の特定期間のみ一般公開。
文政4年(1821)、津の藩校、有造館[ゆうぞうかん]の支校として第10代藩主藤堂高兌[とうどうたかさわ]が建築。講堂、御成門、表門、有恒寮[ゆうこうりょう]、小玄関、台所棟などが残されている。なかでも72畳の広さを誇る講堂は圧巻だ。
伊勢上野城は、標高40mの台地の上に造られた平山城で、織田信長の弟である信包[のぶかね]が永禄12年(1569)に津城の仮城としてここに居城を定め、天守台、本丸等を整備したものと考えられている。また、お市と茶々、初、江の浅井三姉妹が暮らしていたと言われている。現在は、本城山青少年公園として芝生広場やアスレチックも整備され、4月には花見、天守台跡の展望台や東屋からは伊勢湾が一望でき、家族連れで楽しめる。
かつて松阪城の警護を任された紀州藩士20人の屋敷で、城の裏門と搦手門[からめてもん]を結ぶ石畳の両側に並ぶ。長屋建ての母屋2棟(重要文化財)と前庭、畑地、土蔵などが槙垣に囲まれた姿は往時そのまま。今も藩士の子孫が住むが、そのうちの西棟一番手前(松阪城より)一戸が内部を一般公開している。
石川氏六万石の家老職にあった加藤家の長屋門と土蔵。建物は、平成2年(1990)の修復工事で幕末当時の姿に復元された。土蔵のなまこ壁や長屋門の白壁に城下町の面影が残っている。
戦国時代に水軍の将として活躍した九鬼嘉隆は、関ケ原の合戦に敗れて答志島に逃走し、自刃する。「鳥羽城の見える地に」との遺言に従い、首は岬の頂上に、胴は麓に葬られた。首塚の石碑、胴塚の五輪の塔は、三重県の文化財に指定されている。
国道260号沿いに立つ町のシンボルキャラクター。ビン玉の電飾で飾られた愛らしいその姿の前で記念撮影する人も多い。ビン玉は夕方から点灯する。
川口町にある七里の渡に面して建てられた河口のまち桑名を象徴する蟠龍櫓。かつては東海道を行き交う人々が必ず目にした桑名のシンボルを忠実に復元。かの有名な歌川広重の浮世絵『東海道五十三次』でも、海上の名城と謳われた桑名を表すためにこの櫓を象徴的に描いている。「蟠龍」とは、天に昇る前のうずくまった状態の龍のこと。龍は水を司る聖獣として中国では寺院や廟などの装飾モチーフとしても広く用いられている。蟠龍櫓についても、航海の守護神としてここに据えられたものと考えられている。
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