高良家住宅
高良家は船頭主屋[しんどうしゅーやー]と呼ばれる旧家。琉球王朝末期に建てられた寄棟造で、サンゴを相方積み技法で軒高まで積み上げた石垣や、ヒンプンなどに風格が残る。屋根は大正時代に茅葺きから赤瓦にふきかえられた。主屋には畳敷きの一・二番座と、板敷きの三番座と裏座の6部屋があり、炊事場も主屋内にある沖縄離島の古民家では珍しい造り。
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高良家は船頭主屋[しんどうしゅーやー]と呼ばれる旧家。琉球王朝末期に建てられた寄棟造で、サンゴを相方積み技法で軒高まで積み上げた石垣や、ヒンプンなどに風格が残る。屋根は大正時代に茅葺きから赤瓦にふきかえられた。主屋には畳敷きの一・二番座と、板敷きの三番座と裏座の6部屋があり、炊事場も主屋内にある沖縄離島の古民家では珍しい造り。
享保5年(1720)に掘られたといわれる井戸で、国の史跡に指定されている。市街地の北東に位置するこの井戸は、島民のものではなく、琉球王府から派遣されてきた役人のための井戸だった。大小の切石を円形に積み上げた見事な石造りの井戸は、当時の宮古島の石工技術の高度さを示している。
北緯24度の石垣島には、国立天文台の観測研究施設の一つである石垣島天文台があり、一般公開を行っている。土・日曜、祝日の夜に行われる、九州・沖縄で最大のむりかぶし望遠鏡を使った天体観望会(要電話予約)は好評だ。
その存在を全国にとどろかせる与那国島の海底遺跡。かつての文明の遺構とも、自然の造形物ともいわれるが、真偽の程は未だ明らかになっていない。ならば実際に潜って自身の目で確かめてみては。スキューバダイビングで潜るのは大変でも、半潜水艇なら、普段着のままで大丈夫だ。与那国島の海は透明度が高いため、ガラス越しに見る海底遺跡はあたかも自分が潜っているかのよう。海底遺跡行半潜水艇は要予約。
15世紀初頭に築城されたと伝えられ、国指定史跡にも指定されている城(沖縄ではグスクと呼ばれる)。城壁は、安山岩と石灰岩を巧みに用いているのが特徴。平成11年(1999)から城壁の修復が行われ、往時の姿を取り戻しつつある。海に面した丘陵の上にある城跡からは、東シナ海を一望。中国陶磁器が出土するなど、盛んに海外との交易を行っていたことがわかる。
15世紀末頃、宮古島の首長として、強大な権力を有した仲宗根豊見親が父親を葬るために建てた墓。宮古在来の「みゃーか」といわれる巨石墓様式の墓と、沖縄本島の横穴式墓の様式を組み合わせた珍しい造りになっている。美しい石積みからは当時の石工技術の高さをうかがえると同時に、沖縄本島との文化交流を垣間見ることができる。墓は仲宗根豊見親の子孫、忠導氏一門によって現在も使用されている。国の重要文化財及び沖縄県指定史跡。
琉球王朝時代、王府が冠船の航路にある各離島に命じて造らせた火番所(烽火台)の遺構。琉球石灰岩で組み上げられた美しい形をしたコート盛は、創建当時のままの姿だといわれている。ここから海上を行く船を見張り、西表の南風番所に狼煙[のろし]をあげて知らせたという。
高那崎の近くに最南端を標す小さくて素朴な碑がある。日本復帰前の昭和45年(1970)に当時、日本列島縦断の旅をしていた学生が、島でアルバイトをして資金をつくり、島の人たちと共に完成させた。海側に出ると、左手に見えるのが高さ数10mの断崖絶壁が続く高那崎のみごとな景観も眺められる。
波照間の人々は太平洋戦争末期、西表島の南風見田の浜へ強制疎開させられた。そして多くの人々がマラリアで命を落とした。慰霊碑はこの時に命を落とした子供達の霊をなぐさめ、この悲劇を繰り返すまいと建てられたものだ。
多良間神社の入口から100mほど東にある、土原豊見親春源[うんたばるとぅゆみやしゅんげん]の墓。アーチ門のある石垣で囲まれた石積みの墓で、その形は沖縄で野辺送りのときに死者を運ぶ龕と呼ばれる葬具に似ている。西側の墓碑には7代目の子孫「春遊」が土原豊見親の偉業を称え、周辺を整備したと記されている。造営は18世紀初頭。この島に流刑にされた心海上人の手によってなされたものと考えられている。
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