権現堂
桃林寺に隣接して立つ。慶長19年(1614)創建。明和8年(1771)の明和大津波で流潰したが、天明6年(1786)に再建された。国の重要文化財に指定されている。石垣を巡らした境内には表門、拝殿、神殿が一直線上に配置されている。
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桃林寺に隣接して立つ。慶長19年(1614)創建。明和8年(1771)の明和大津波で流潰したが、天明6年(1786)に再建された。国の重要文化財に指定されている。石垣を巡らした境内には表門、拝殿、神殿が一直線上に配置されている。
西表島の西側、船浮集落は船でしか行くことのできない陸の孤島。石垣島からの定期船が着く上原港からレンタカー、または路線バスで島の周囲を走る半周道路の最西端にある白浜港へ行き、ここからさらに船浮海運の定期船(往復960円)に乗って約10分、穏やかな入り江の奥に船浮集落は存在する。イリオモテヤマネコはここで初めて捕獲された。
一周道路を少し外れた森の中にある。本土復帰を記念して島民により整備された一帯は下田原城とよばれる城跡で、石組みの城壁が残っている。また近くには下田原貝塚や大泊貝塚もあり、島の古代史を今に伝える重要な場所となっている。
日本の最も西の果てにある西崎の岬。日本で一番最後に夕日が沈むのがこの地だ。展望台から見る日本で一番遅い夕日は与那国に来たら必見。与那国町観光協会では、最西端に来た証明書を発行している。この「日本最西端の証」は1部500円。観光協会以外では、生活雑貨の店ふく、オネ・マヒナ、米浜レンタカー(空港案内所)、アイランドホテル与那国、漁協空港売店、観光協会事務所(空港案内所)、民宿もすらのたまご、ひだまり工房でも発行してくれる。
西港の手前に、昭和25年(1950)まで操業していた燐鉱石採掘事業の跡地がある。レンガの建物は鉱石を乾燥させた場所、左側の建物は貯蔵庫だった。ここで精製、乾燥された燐鉱石は、トロッコで西港へ運ばれ、北大東島外へ搬出されていた。燐鉱石採掘事業は戦前に最盛期を迎え、島の人口は2000人を超えていたという。国史跡に指定されている。
文政2年(1819)、宮良間切の頭職だった宮良親雲上當演[ぺーちんとうえん]が、琉球の伝統的な建築様式にのっとり造らせた館。世界大戦で沖縄本島の士族家屋はことごとく焼失したが、石垣島は戦火を免れた。そのため、当時の士族の邸宅を知る資料として、国の重要文化財に指定されている。母屋の右奥にある庭園は首里の名造園師、城間親雲上[ぐすくまぺーちん]が設計監督したもので、国の名勝に指定されている。
石垣島南部の眼下に宮良湾を望む丘陵にある国指定史跡となっている遺跡である。約12haの敷地内には、中世の防御性を持った屋敷囲いの石垣をはじめ、近世の古墓や御嶽跡などが点在する。現在は発掘調査と石積みの復元など、整備が進められており、13世紀前半から16世紀初頭の土器や陶磁器などが出土している。
昭和62年(1987)、国の伝統的建造物群保存地区に指定。ハイビスカスが咲き、サンゴを積み上げた石垣に囲まれた家の伝統的な赤瓦と白砂の道が美しいコントラストを見せる集落は、昔ながらの景観を残している。
小浜島の最西端の半島にある集落。明治時代の末期に、沖縄本島の糸満から海人が移住して開いた集落で、今でも多くの海人が住んでいる。細崎漁港の隣には海人公園があり、大きなマンタをかたどった屋根の展望台や波の形をしたトイレがある。展望台からは青く輝く海をはじめ美しい景色が見られ、なかでもマンタポイントで知られるヨナラ水道をはさんで、西表島が近くに見えるのは驚きだ。
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