
玉陵
文亀元年(1501)、尚真[しょうしん]王により父尚円[しょうえん]王の遺骨を移葬するために建てられた第二尚氏歴代国王の墓。首里城の西側に位置する壮大な石造建築物。板葺き屋根の宮殿を模した切妻屋根型の墓室が東室・中室・西室の3基連なり、東室には国王、王妃の遺骨、西室には王族の遺骨、中室には洗骨前の遺骸を安置したとされる。
- 「儀保駅」から徒歩14分/「首里駅」から徒歩18分
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文亀元年(1501)、尚真[しょうしん]王により父尚円[しょうえん]王の遺骨を移葬するために建てられた第二尚氏歴代国王の墓。首里城の西側に位置する壮大な石造建築物。板葺き屋根の宮殿を模した切妻屋根型の墓室が東室・中室・西室の3基連なり、東室には国王、王妃の遺骨、西室には王族の遺骨、中室には洗骨前の遺骸を安置したとされる。
約1600坪もの敷地内に、トーシー墓(当世墓)と4つのシルシラシ墓がある沖縄県最大級の共同墓。「門中」とは父系の血縁集団のことで、2つの門中の子孫は現在約5000人とも言われている。
琉球石灰岩でできた三連アーチ型の門。70m近くにわたる重厚な石門は、切石布積みで造られたもの。国重要文化財にも指定されている。門の内部は境内で、かつては琉球王国の歴代の尚[しょう]氏王統の霊を祭る崇元寺があったが、沖縄戦によって全壊した。
守礼門近くにある琉球石灰岩で造られた石門。門の造りだが人が通る門ではなく、あくまで礼拝用。琉球国王が外出する際に、道中の安泰を門の向こうの神に祈願したという。尚真王[しょうしんおう]時代の1519年の建造で、沖縄戦で一部破壊されたが昭和32年(1957)に復元。国指定重要文化財であり、平成12年(2000)には世界遺産「琉球王国のグスク及び関連遺産群」の構成資産の一つに登録された。
「ひめゆりの塔」は沖縄戦で亡くなったひめゆり学徒のための慰霊碑。米軍の攻撃によりたくさんの生徒が亡くなった伊原第三外科壕のそばに建てられた。併設のひめゆり平和祈念資料館は沖縄戦でのひめゆり学徒隊の体験を伝える資料館。生存者の映像や手記、壕の実物大模型などを通して戦場の様子を知り、戦争や平和について学ぶことができる。
陶器と喫茶「南窯」裏手にあり、今までに数多くの名品を生み出してきた荒焼[あらやち]用の登り窯。地形の傾斜を利用して造られたかまぼこ型の窯で、壺屋地区に窯場が集められた頃に琉球王府から賜った拝領窯といわれている。現在は閉窯しているが見学可能。昭和48年(1973)沖縄県文化財指定。窯を覆うようにかけられた赤瓦屋根のなだらかな曲線が印象的。
標高127mの高台にある城跡で、15世紀初めに名築城家として知られる護佐丸[ごさまる]によって築城された。2つの郭[くるわ]からなる連郭式。沖縄に現存するものでは最古といわれるアーチ門の優美な姿や、高さ13m・延長360m余りの城壁の堂々たる構えは見応え充分。沖縄戦の際には旧日本軍の高射砲陣地となり、戦後には米軍のレーダー基地が置かれていたが、現在では戦争の面影は見られず静けさを取り戻している。城壁の上からは、東シナ海の島々や那覇から本部半島までの沖縄本島西海岸を一望することができる。
標高約180mに約600年前に築かれた天然要塞の城跡で、久高島や中南部が見渡せる。三つの郭に分かれており、主郭の城壁はほぼ完全に近い形で残っており、石灰岩をくり抜いた城門が特徴的。
沖縄最古の歌謡集にも謡われた歴史ある城跡。自然石を積んだ古城と切石のアーチ門を備えた新城の2つの郭からなる。
平和祈念公園の中にある刻銘碑。平成7年(1995)に太平洋戦争・沖縄戦終結50周年を記念して、沖縄戦犠牲者すべての名を刻んだもの。沖縄戦最初の米軍上陸地、座間味村阿嘉島で採取した火と、広島市の「平和の灯」と長崎市の「誓いの火」を合火した「平和の火」を中心に、扇状に刻銘碑が広がる。メイン園路は6月23日の慰霊の日の日の出方向に向かって延びていて、平和への道のりを表わしている。
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