
公益質屋跡
昭和4年(1929)創立の村営の金融機関で、当時としては珍しいコンクリート造りの建物。沖縄戦で伊江島の建物が焼き払われた中、かろうじて原型をとどめていた建物である。地上戦の跡も生々しく、砲弾などの跡が残っており、戦争の恐ろしさを後世に伝える存在として、村の史跡に指定されている。
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昭和4年(1929)創立の村営の金融機関で、当時としては珍しいコンクリート造りの建物。沖縄戦で伊江島の建物が焼き払われた中、かろうじて原型をとどめていた建物である。地上戦の跡も生々しく、砲弾などの跡が残っており、戦争の恐ろしさを後世に伝える存在として、村の史跡に指定されている。
享保5年(1720)に掘られたといわれる井戸で、国の史跡に指定されている。市街地の北東に位置するこの井戸は、島民のものではなく、琉球王府から派遣されてきた役人のための井戸だった。大小の切石を円形に積み上げた見事な石造りの井戸は、当時の宮古島の石工技術の高度さを示している。
玉御殿は、琉球王家第二尚氏初代尚円の父(尚稷)らの墓所とされ、伊是名島の南東に突き出す小山の北麓に位置している。首里に築いた「王陵」と、ほぼ同時期に伊是名島の玉御殿も築いたと伝わる。国指定重要文化財。
16世紀初頭、尚真王の王府軍の攻撃を受け、火攻めに遭って落城したと伝えられる城跡。久米島で最も高い宇江城岳(310m)山頂に城壁が残る。ここからの眺めは360度の絶景。唯一全島を見渡すことができる場所としても有名だ。晴れた日には粟国島や渡名喜島も見ることができ、この眺めを味わうために訪れる人も多い。
約280年前に建てられた豪農屋敷で、沖縄戦の戦災を免れて琉球王朝時代の民家構造を完全に残している。享保10年(1720)頃には地頭職であったため、士族屋敷の形式としての風格もある。ほかにもトゥングワとよばれる屋根裏部分を物置きに使用するために屋根が低くなっている台所や、フールとよばれる豚小屋などに特徴がある。中世の日本の家屋と中国の建築の影響が随所に見られ、琉球時代の裕福な農家の暮らしを今に伝えている。
市街地の北方、荷川取海岸の道路沿いに立つ石柱。屋敷神、陽石、男根崇拝など様々な説があるが、有力なのが人頭税石である。人頭税とは、薩摩藩の侵略で財政が窮乏した琉球王朝が寛永14年(1637)~明治36年(1903)まで宮古島と八重山地方に課した税のことで、高さ143cmのこの石柱の高さに身長が達すると男性は粟、女性は上布の納税が義務付けられたと言われている。実際は役人の見立てで身長の判断はされていたそうだが、当時の取り立ての厳しさを後世に伝える意味で大切に保存されている。
銘苅家の先祖は尚円王の縁戚にあたり、王朝時代に代々島の地頭職を務めた旧家。住宅は国指定重要文化財に指定されている。門から入ると正面にヒンプン(目隠し塀)が、右側には屋根付きの門が立ち、女性は門、男性はヒンプンの左側から出入りしていたという。現在の建物は明治38年(1905)の再建で、母屋と那覇からの客の宿泊場所だったアサギ(離れ屋)の2棟がある。良質のマキ材を使って、伝統的な沖縄の建築様式で建てられている。母屋の背面と台所の外壁が漆喰塗りになっていることと、母屋とアサギが別棟でありながら屋根がひと続きなのが特徴。
伊是名島にある。第二尚氏に先立ち、永享元年(1429)に琉球初の統一王朝である第一尚氏王朝を築いたのは尚巴志[しょうはし]だが、島の東端にある伊是名城跡は、14世紀中ごろ尚巴志の祖父にあたる鮫川大主[さめかわうふぬし]が築城した城だ。珪岩[けいがん]でできた城は海抜約100m、三方が海や絶壁という天然の要塞で見事なピラミッド型をしている。山全体が城で、北側に石垣が築かれている。この城は鮫川大主が本島へ移ると廃城になった。沖縄県指定史跡。
沖縄戦で米軍が最初に上陸したのは慶良間諸島。渡嘉敷島の北部、慶良間諸島の中で1番高い標高227mの赤間山中腹にある白玉之塔は、追い詰められた末に自決した島民や日本兵、約550柱を祭っている。
桃林寺に隣接して立つ。慶長19年(1614)創建。明和8年(1771)の明和大津波で流潰したが、天明6年(1786)に再建された。国の重要文化財に指定されている。石垣を巡らした境内には表門、拝殿、神殿が一直線上に配置されている。
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