
星谷寺(星の岩屋)
四国霊場第19番札所立江寺の奥の院。災厄の悪星を、弘法大師が石に変えて岩屋に封じ込めたという伝説から「星の岩屋」の別名がある。
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四国霊場第19番札所立江寺の奥の院。災厄の悪星を、弘法大師が石に変えて岩屋に封じ込めたという伝説から「星の岩屋」の別名がある。
白鳳元年(672)の創建と伝わる古刹。多くの宝物を所有し、聖観音坐像(重要文化財)は立てば1丈6尺(約5m)にもなるほどで、寺名の由来になっている。境内には、本堂(重要文化財)、観音堂(重要文化財)や、三門(重要文化財)、経蔵(重要文化財)などがある。
本堂は山の中腹にあって、石段を上ると大師堂、さらにその上に本堂がある。聖武天皇の勅願により行基が厄除けの薬師如来像を自ら彫って本尊としたと伝えられ、諸人の災厄を除く道場となった。この寺は、もとは女人禁制の道場であったため、弘法大師がこの寺で修行していた折、母の玉依御前がはるばる訪ねてきたが会えなかった。そこで大師は母のために一七日(一週間)滝に打たれ修行し、女人解禁の秘法を修め、晴れて母と対面できたという。母君はここで髪を切って出家した。以来、寺号を母養山恩山寺とした。
聖武天皇の勅願により行基が開山。白鷺に導かれてこの地に来た行基は、聖武天皇の妃、光明皇后の安産を祈願して1寸8分(約5cm)の金の延命地蔵尊を刻み、本尊とした。そのため、後に子安地蔵として広く信者を集めるようになった。弘法大師が訪れた際、本尊があまりに小さいので紛失を心配し、6尺(約1m80cm)の地蔵菩薩を刻んで胎内に納めたという。創建当時は現在のやや西側、清水の奥谷にあったが、16世紀後半長宗我部の兵火に遭う。阿波の蜂須賀家によって現在の地に再興された。元の寺が奥の院となる。
中国風の鐘楼門をくぐり石段を上ると本堂が、その左手の石段を上ると大師堂がある。人間がもつ生・老・病・死・怨憎会苦・愛別離苦・求不得苦・五陰盛苦という八つの苦しみを阿弥陀如来の慈悲により乗り越え、極楽浄土の十の楽しみを得られるようにと、十楽寺と名付けられた。3kmほど離れた十楽寺谷堂ケ原で弘法大師が阿弥陀如来を感得し、尊像を刻んで開基したと伝える。大伽藍を誇る大寺院であったが、天正年間(1573~92)の長宗我部勢の兵火で焼失。寛永年間(1624~44)に現在地に再建。本尊だけは焼ける本堂の中から住職(真然)が背負って逃げたため無事で、創建時より伝わる大変貴重なもの。
シャクナゲで知られる寺院。5月上旬からは数百本のシャクナゲが境内に咲き誇る。期間中(4月下旬~5月中旬)は拝観料300円が必要。
第二番札所極楽寺の駐車場には団体の納経所も兼ねた遍路用品店長寿庵が建っている。
20番鶴林寺の奥の院として知られ、洞窟の中での修行を行う「穴禅定」を実施。別格雲場第3番、穴禅定 洞窟修行は別途料金、要予約。
「一番さん」と親しまれる四国霊場第1番札所。天平年間(729~49)、聖武天皇の勅願道場として行基が創建したといわれ、一年中白装束のお遍路さんで賑わう。1番札所の札がかかる仁王門をくぐると鯉が泳ぐ池があり、大師堂や多宝塔、本堂などが立ち並ぶ。1番札所にふさわしく、納経帳や遍路用の衣装、金剛杖、菅笠などを販売。ガイドブックもある。わからないことは、駐車場横の売店に尋ねよう。毎年2月3日には、節分・開運星祭り祈願が行われる。
奥深い山を背に本堂が立つこの寺は、弘法大師が42歳の時に厄難を除こうと刻んだ薬師如来像が本尊として祀られている。渓流の清らかなこの地に心打たれ、現在の境内からさらに山中に入った八畳岩の上に護摩壇を築いて17日間修行を積み、五色の藤を植えたことから寺の名が付けられた。平安時代には真言密教の道場として栄え、七堂伽藍が並んだが、戦国期に長宗我部勢の兵火で焼失。延宝年間(1673~81)に臨済宗の南山禅師が再興し、現在の宗派に改めた。八畳岩から12番札所への遍路道は難所として有名。
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