
丸亀藩陣屋跡
龍野藩主だった京極家は四国丸亀に移封された後も、網干の興浜や浜田など28カ村を飛領として支配し、陣屋を設けた。京極家の紋瓦がある現在の陣屋門は老朽化した旧陣屋門を参考にして改築されたもので、昔の建物などは明治期に取り壊された。
- 「山陽網干駅」から徒歩15分
ジャンル/こだわり条件等を指定して検索できます。
龍野藩主だった京極家は四国丸亀に移封された後も、網干の興浜や浜田など28カ村を飛領として支配し、陣屋を設けた。京極家の紋瓦がある現在の陣屋門は老朽化した旧陣屋門を参考にして改築されたもので、昔の建物などは明治期に取り壊された。
町を見下ろす鶏籠山の麓に立つ。昭和50年代に本丸御殿、隅櫓、多聞櫓、埋門などが整備されている。優美な大屋根を持つ本丸御殿は一般的な城のイメージと違って、入母屋造、瓦葺の平屋建ての造りが特徴で内部の見学もできる。鶏籠山山頂に室町末期の山城跡が残っている。
建築家村野藤吾氏の設計による、国の登録有形文化財としても価値のある施設で、かつて大庄村役場として建てられたもの。大庄小学校の目の前にあり、地域活動の拠点として近隣住民に広く利用されている。建築ファンの訪問も多く、「建物に興味があればいつでもご案内いたしますよ」と館長。
元和5年(1619)、徳川家康のひ孫である小笠原忠政(のちの忠真)が築城した明石城を中心とした県立明石公園。重要文化財である、坤[ひつじさる]・巽[たつみ]の両櫓は、全国に12基しか現存しない希少な三重櫓のうちの2つ。両櫓を結ぶ美しい白壁の土塀や、全国有数の長さといわれる東西380mの石垣など見所満載。芝生広場や、剛ノ池でのボート、運動施設など、市民の憩いの場として親しまれている。甲子園球場約13個分もの広大な敷地を誇り、JR明石駅より徒歩5分の抜群のアクセスで春は桜、秋は紅葉目当てにたくさんの来園者でにぎわう。
中央に鎮座する閻魔大王をはじめ、10人の王や「具生神」と呼ばれる書記官が祀られている。温泉寺の薬師堂の境内に位置し、山門をくぐれば右手に「十王堂」がある。薬師堂参拝の際にはぜひ訪れて、荘厳な雰囲気を漂わせて並ぶ石像をお参りしよう。
明治45年(1912)完成し、約100年もの間、山陰の交通を支えた朱色の橋「余部鉄橋」が、安全性・定時性確保のため、平成22年(2010)8月コンクリート橋に架け替えられた。余部鉄橋同様、「空中列車」としての眺望も美しく、新たな余部のシンボルとなっている。餘部駅へは急な細い山道が続くため、車では行けない。余部鉄橋の橋脚は、駅側3本が現地保存されていて、展望施設「空の駅」として活用されている。平成29年(2017)11月、空の駅へと続くエレベーター「余部クリスタルタワー」が完成。
領有関係が複雑だった尼崎藩の領地の境を示した碑。江戸時代は西川村内で樋ノ口、新堤、山ノ下に3基の碑があったとされるが、この碑は樋ノ口にあったものと見られている。
公園内に、尼崎城天守が再建。鉄筋コンクリート4層天守の5階建てで、1階の無料ゾーンでは、尼崎の魅力を紹介した映像が楽しめるほか、尼崎名物を販売しているショップがある。2階からは、有料ゾーンになっており、VRシアターや鉄砲、剣術の体験コーナー、忍者やお姫様の衣装を身に着けることができるなりきり体験など楽しみながら学べるコンテンツが充実している。最上階の5階では、現在の尼崎の街並みと江戸時代の街並みを比べながら当時の尼崎の様子を感じることができる。
慶長14年(1609)、篠山城とほぼ同時期に建てられ、藩の公式行事などに使用された大書院。火災で焼失したが、地元の多くの人々の長年の願いを受けて、平成12年(2000)に復元再建。大書院の中で最も格式の高い部屋「上段の間」は必見。
『暗夜行路』などを書いた大正・昭和の小説家・志賀直哉。城崎温泉は、大正2年(1913)、電車にはねられて負傷した志賀直哉が療養した温泉地として知られる。その際に執筆した『城の崎にて』の言葉が記された文学碑が城崎文芸館前に配されている。城崎温泉の温泉街に建てられた24点の文学碑のうちの一つだ。
運行情報はありません。
路線が登録されていません。
路線登録で登録した路線の運行情報が表示されます。
路線を登録すると、登録した路線の運行情報が右サイドで表示される機能です。
トップページ、電車関連ページで表示されます。
エリアを登録すると、登録したエリアの天気情報が表示されます。