
コート盛
琉球王朝時代、王府が冠船の航路にある各離島に命じて造らせた火番所(烽火台)の遺構。琉球石灰岩で組み上げられた美しい形をしたコート盛は、創建当時のままの姿だといわれている。ここから海上を行く船を見張り、西表の南風番所に狼煙[のろし]をあげて知らせたという。
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琉球王朝時代、王府が冠船の航路にある各離島に命じて造らせた火番所(烽火台)の遺構。琉球石灰岩で組み上げられた美しい形をしたコート盛は、創建当時のままの姿だといわれている。ここから海上を行く船を見張り、西表の南風番所に狼煙[のろし]をあげて知らせたという。
15世紀初頭に築城されたと伝えられ、国指定史跡にも指定されている城(沖縄ではグスクと呼ばれる)。城壁は、安山岩と石灰岩を巧みに用いているのが特徴。平成11年(1999)から城壁の修復が行われ、往時の姿を取り戻しつつある。海に面した丘陵の上にある城跡からは、東シナ海を一望。中国陶磁器が出土するなど、盛んに海外との交易を行っていたことがわかる。
高良家は船頭主屋[しんどうしゅーやー]と呼ばれる旧家。琉球王朝末期に建てられた寄棟造で、サンゴを相方積み技法で軒高まで積み上げた石垣や、ヒンプンなどに風格が残る。屋根は大正時代に茅葺きから赤瓦にふきかえられた。主屋には畳敷きの一・二番座と、板敷きの三番座と裏座の6部屋があり、炊事場も主屋内にある沖縄離島の古民家では珍しい造り。
日本の最も西の果てにある西崎の岬。日本で一番最後に夕日が沈むのがこの地だ。展望台から見る日本で一番遅い夕日は与那国に来たら必見。与那国町観光協会では、最西端に来た証明書を発行している。この「日本最西端の証」は1部500円。観光協会以外では、生活雑貨の店ふく、オネ・マヒナ、米浜レンタカー(空港案内所)、アイランドホテル与那国、漁協空港売店、観光協会事務所(空港案内所)、民宿もすらのたまご、ひだまり工房でも発行してくれる。
昭和62年(1987)、国の伝統的建造物群保存地区に指定。ハイビスカスが咲き、サンゴを積み上げた石垣に囲まれた家の伝統的な赤瓦と白砂の道が美しいコントラストを見せる集落は、昔ながらの景観を残している。
昭和4年(1929)創立の村営の金融機関で、当時としては珍しいコンクリート造りの建物。沖縄戦で伊江島の建物が焼き払われた中、かろうじて原型をとどめていた建物である。地上戦の跡も生々しく、砲弾などの跡が残っており、戦争の恐ろしさを後世に伝える存在として、村の史跡に指定されている。
玉御殿は、琉球王家第二尚氏初代尚円の父(尚稷)らの墓所とされ、伊是名島の南東に突き出す小山の北麓に位置している。首里に築いた「王陵」と、ほぼ同時期に伊是名島の玉御殿も築いたと伝わる。国指定重要文化財。
市街地の北方、荷川取海岸の道路沿いに立つ石柱。屋敷神、陽石、男根崇拝など様々な説があるが、有力なのが人頭税石である。人頭税とは、薩摩藩の侵略で財政が窮乏した琉球王朝が寛永14年(1637)~明治36年(1903)まで宮古島と八重山地方に課した税のことで、高さ143cmのこの石柱の高さに身長が達すると男性は粟、女性は上布の納税が義務付けられたと言われている。実際は役人の見立てで身長の判断はされていたそうだが、当時の取り立ての厳しさを後世に伝える意味で大切に保存されている。
石垣島の南西に位置する観音崎に立つ、極彩色の中国風屋根飾りが目を引く墓。西欧諸国が、中国からいわゆる労働者として多くの苦力[くーりー]を自国に送っていた産業革命時代、福建省出身の苦力たちは船旅の途中、船員たちからひどい虐待を受け船内で暴動を起こしたため、石垣島に強制下船させられた。彼らはその後派遣された英国軍により、殺害されたり捕虜となった。石垣の人々は熱心に彼らを助けようとしたが、疫病の流行もあり彼らの多くは命を落としてしまう。異国で果てた彼らを慰めようと作ったのが、唐人墓の始まり。現在の唐人墓は昭和46年(1971)、周辺にいくつもあった唐人墓の遺骨をまとめて作られたもの。
一周道路を少し外れた森の中にある。本土復帰を記念して島民により整備された一帯は下田原城とよばれる城跡で、石組みの城壁が残っている。また近くには下田原貝塚や大泊貝塚もあり、島の古代史を今に伝える重要な場所となっている。
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