
磐梯山慧日寺資料館・史跡慧日寺跡金堂
今からおよそ千二百年前、南都(奈良)で法相教学を学んだ後に都を離れ、理想の修行の地を求め、はるか東国へと錫を振った稀代の学僧がいた。後世に菩薩・大師とも称され、会津仏教文化の礎を築いた若き日の「徳一」。徳一は霊峰磐梯山を仰ぎ見る山麓に慧日寺を開創し修行の拠点とした。その慧日寺跡の中心伽藍に開祖徳一菩薩の意思を伝える古代儀礼空間「金堂・中門」が1200年の悠久の時を越えて甦った。
- 「磐梯町駅」から徒歩21分
ジャンル/こだわり条件等を指定して検索できます。
今からおよそ千二百年前、南都(奈良)で法相教学を学んだ後に都を離れ、理想の修行の地を求め、はるか東国へと錫を振った稀代の学僧がいた。後世に菩薩・大師とも称され、会津仏教文化の礎を築いた若き日の「徳一」。徳一は霊峰磐梯山を仰ぎ見る山麓に慧日寺を開創し修行の拠点とした。その慧日寺跡の中心伽藍に開祖徳一菩薩の意思を伝える古代儀礼空間「金堂・中門」が1200年の悠久の時を越えて甦った。
表磐梯東麓の高台に、徳川三代将軍家光の弟で、初代会津藩主となった保科正之をまつる土津[はにつ]神社がある。延宝3年(1675)に創建されたもので、その壮麗さは奥日光、東北の日光などと讃えられた。社殿は戊辰戦争で焼け、明治時代に再建されたものだが、墓所のある奥の院を含めた一帯が国の史跡に指定されている。手前の磐椅[いわはし]神社には、会津五桜の一つ、5月中旬に開花する大鹿桜[おおしかざくら]がある。
会津三十三観音の第一番札所。真言宗紅梅山常安寺境内。大木村に大木左馬亮という常安長者が創建し、持仏の十一面観音像を納めた。大木観音堂の右手には、「万代の願ひ大木の観世音あの世とともに救け給へや[よろづよのねがいおおきのかんぜおんあのよとともにたすけたまえや]」が刻まれた御詠歌の石碑が有る。
天暦元年(947)村上天皇の勅旨が奉納したという、サトザクラの一品種のヤエザクラ(子菊桜)で、「会津の五桜」のひとつ。「花の中心雌芯[しずい]の変化した2、3の葉が生じた花弁も70数枚になる」という珍しい桜である。開花の時は白色だが暫時鹿の色に似る。開花期間が長いことから、別名「翁桜」とも呼ばれる。このほかに、杉に寄生した縁結び桜もある。
会津の初代藩主保科正之を祀る神社。建立は延宝3年(1675)と古く、当時は日光東照宮に並ぶほどの荘厳さを誇ったという。戊辰戦争により焼失したが、明治13年(1880)に再建された。境内には正之を讃える高さ7.6m、重さ約30トンの霊号碑がある。
千年以上の歴史を持つ山の神。参道には樹齢400年を超える杉並木が続く。6月の1ケ月間続く大山まつりには、県内外から大勢の参拝客が集まる。「一生に一度はなじょな(どんな)願いも聞きなさる」という。
創建は応永29年(1422)の古刹。明治13年(1880)の喜多方大火で旧本堂が消失したので、防火のために蔵造りの本堂を再建した。白と黒のコントラストが美しい。
ケヤキの一木造りの坐像で会津五薬師の一つと伝えられ、国宝である勝常寺のほかに残る唯一の像。元祿4年(1691)に再建したと伝えられる。堂内に日光・月光の両脇侍及び十二神将像等が安置。
境内の観音堂は、国の重要文化財に指定。室町末期の建立で、方三間、総檜材茅葺きの入母屋造り。内部は本格的な唐様建築の手法だ。絵様くり形のある木鼻・虹梁に、中央は格天井。当時の技法を知る上からも、極めて貴重な古建築だ。
茅葺き屋根の村・大内宿を一望できる、小高い山に位置する菩薩寺。300年以上、村を見守り続けて来た本尊の阿弥陀如来が見られる。戊辰戦争の際の官軍の詰め所でもあった。
運行情報はありません。
路線が登録されていません。
路線登録で登録した路線の運行情報が表示されます。
路線を登録すると、登録した路線の運行情報が右サイドで表示される機能です。
トップページ、電車関連ページで表示されます。
エリアを登録すると、登録したエリアの天気情報が表示されます。