
真宗大谷派函館別院
明治40年(1907)の大火を受け、大正4年(1915)に鉄筋コンクリートで建造。耐火建築寺院の歴史的価値が認められ、平成19年(2007)12月に本堂、正門、鐘楼が国の重要文化財に指定された。
- 「十字街駅」から徒歩8分/「末広町(函館)駅」から徒歩8分
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明治40年(1907)の大火を受け、大正4年(1915)に鉄筋コンクリートで建造。耐火建築寺院の歴史的価値が認められ、平成19年(2007)12月に本堂、正門、鐘楼が国の重要文化財に指定された。
函館山の麓に建立された高さ約6mの慰霊碑。箱館戦争で戦死した旧幕府軍の戦死者は、新政府の命により埋葬を許されなかったが、その惨状を見かねた侠客・柳川熊吉や実行寺日隆住職、大工棟梁・大岡助右衛門らの有志によって遺体は埋葬された。明治8年(1875)、箱館戦争で生き残った榎本武揚、大鳥圭介らも協力して、土方歳三を含めた約800人を慰霊するために碧血碑を建立。毎年6月下旬には碑前慰霊祭が行われている。
明治・大正時代に北海道各地で建てられた建物を移築した施設。村内には馬車鉄道が走り(冬期は馬そり)、鰊[にしん]番屋や石造りの旧小樽新聞社など、歴史上貴重な建築を間近に見ることができる。4つのブロックに分かれ、市街地、農村、漁村、山村とそれぞれ趣の違う街並みを散策できる。昔の生活を体験できるよう、季節ごとにさまざまな年中行事も実施している。
明治13年(1880)、道内初の鉄道・幌内鉄道の開通(小樽・手宮~札幌間)をきっかけに、物資の集積地として発展した小樽。明治後半~昭和初期にかけて、色内地区には当時の流行を取り入れた銀行建築などが立ち並んだ。現在それらの建物の一部は資料館やレストランとして再利用されている。
昭和25年(1950)に発見された約1500~2000年前(続縄文時代)の遺跡。洞窟の内壁には人物や動物、舟などを描いたと思われる刻画が見られる。
函館山の麓、元町公園や旧イギリス領事館のすぐそばにある芝生の広場。安政元年(1854)に函館に来航したアメリカのマシュー・ペリー提督の函館来航150周年を記念して、旧市立函館病院跡地にペリー提督来航記念碑が建立され、「ペリー広場」の愛称が付けられた。広場の高台に立つ記念碑は、函館港を見下ろすように悠然と立つペリー提督の銅像が印象的だ。ちなみに、ペリーは函館を「天然の良港」と賞賛した。
明治43年(1910)、豪商・相馬哲平からの5万円の寄附を元に建築。当時皇太子だった大正天皇をはじめ、皇室の行啓の際にも使用された由緒ある木造2階建ての建物で、国指定重要文化財。青灰色の外壁と黄色の窓枠のコントラストが美しいコロニアルスタイルに、正面入口の唐草模様など、和と洋が調和した造りが随所に見られる。館内は、1階にカフェとして営業する大食堂や球戯室など、2階に御座所、大広間、御湯殿などがあり、当時の調度品が展示されていて興味深い。明治時代のドレスや着物で記念撮影ができる函館ハイカラ衣裳館は予約不要。
日本海を望む岬の先端に建つ。明治30年(1897)、北海道の日本海沿岸がまだニシン漁で栄えていた時代、積丹[しゃこたん]の網元・田中福松によって泊村に建築され、昭和33年(1958)に現在地へ移築された。当時は120名ものヤン衆(出稼ぎの漁夫)が寝泊まりしていたという。現存する鰊御殿の中では最大級の規模を誇る。所要30分。
明治時代にイギリス人技師によって設計され、千歳市の有形文化財に指定されている支笏湖山線鉄橋。昭和26年(1951)まで使用されていたが、鉄道の廃止後は歩道橋として利用されている。
明治2年(1869)4月、榎本武揚らが北の防備のために築いた土塁作りの城郭。五稜郭公園の北側約3kmの場所にあり、東西104m、南北66m、4つの稜をもつ蝶のような形をしている。同年5月、官軍と旧幕府軍がここで戦ったという歴史をもち、現在は復元された土塁だけが残り、一帯は公園として整備されている。大規模な五稜郭に比べて規模ははるかに小さく、あまり知られていないが、静かな公園の緑の芝生を散策しながら歴史に想いを馳せてみるのもいい。
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