
辰巳用水
寛永9年(1632)に3代藩主利常が板屋兵四郎に命じて造らせた水路。当時の金沢はたび重なる火災から城下を守るための防火用水や、水の便が悪かった金沢城内への引水が必要だった。そこで城から約11km離れた犀川上流の上辰巳町から兼六園まで水路を造り、当時の技術としては画期的な逆サイフォン方式で兼六園から金沢城へと水を導いたのだ。今も石引通りの歩道沿いなどで、水路の一部を見ることができる。
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寛永9年(1632)に3代藩主利常が板屋兵四郎に命じて造らせた水路。当時の金沢はたび重なる火災から城下を守るための防火用水や、水の便が悪かった金沢城内への引水が必要だった。そこで城から約11km離れた犀川上流の上辰巳町から兼六園まで水路を造り、当時の技術としては画期的な逆サイフォン方式で兼六園から金沢城へと水を導いたのだ。今も石引通りの歩道沿いなどで、水路の一部を見ることができる。
大正11年(1922)に旧陸軍第九師団長官舎として建てられた。玄関周囲に当時の面影が残る。石川県内外の文化財の修復を行う石川県文化財保存修復工房に隣接。修復作業工程を映像などでわかりやすく紹介するほか、実際の修復作業の様子も見学できる。
400年前の恋物語が残る粟津温泉は、「恋人の聖地」の認定地。おっしょべ公園には縁結び絵馬などがある。
築約200年の規模を誇る大きなお茶屋建築。金沢市指定保存建造物に選定されている。数々のドラマや映画の舞台にもなっている館内を、昼は一般に広く公開し、夜は今もなお、1日1組貸切で華やかなお座敷を楽しむことができる。カフェも併設し、名物黄金くずきり1900円など、甘味を味わうこともできる。館内のギャラリーでは、限定販売の和菓子などの買い物も楽しめる。季節ごとにお茶屋遊びを体験できる艶遊会も開催している。
建物は今から200年前に建てられた加賀藩肝煎の民家。茅葺き屋根の平屋建てで、巨大な松の梁や黒光りする威厳のあるケヤキ柱などが歴史を感じさせる。40種類以上のコケに覆われた庭園も美しい。
『平家物語』で知られる仏御前の里。美貌で知られた御前は14歳で都に出て歌舞を舞う白拍子となり、17歳のときに祇王、祇女のとりなしで平清盛の前で舞い、寵愛を受けることになる。しかし、それまで清盛の寵愛を受けていた祇王、祇女は失意の末に出家。それを知った御前は、わずか半年で清盛のもとを去り、のちにここ小松市原町で庵を結ぶが、21歳で早世した。同町の林成人氏宅には仏御前尊像があり、家人がその逸話を語ってくれる。
天正11年(1583)、前田利家が金沢城に入城した直後から本格的な城づくりを開始。約30万平方mの敷地に20もの櫓をもつ城だったが、たび重なる火災から石川門と三十間長屋、鶴丸倉庫のみが残った。一時は金沢大学のキャンパスとして使用。現在は金沢城公園として整備され、復元した菱櫓・五十間長屋・橋爪門続櫓・橋爪門などが立つ。
かつて金沢城を造るための木材等を運んだ水路で、ゴリや鮎もとれたという大野庄用水。その東側の小路に一歩足を踏み入れれば、江戸時代に逆戻りしたかのような武家屋敷跡に入る。両側に土塀が連なる細い道は、突き当たっては曲がる迷路のよう。戦いの際に敵が一気に侵入するのを防ぐ構造になっている。土塀にのった光沢のある瓦は雪や雨の多い北陸地方独特のもので、釉薬をかけて焼いてある。休憩室や観光案内コーナーがある、長町武家屋敷休憩館(時間:9~17時、12月1日~3月15日は9時30分~17時、無休)にも立ち寄りたい。
卯辰山中腹の木立の中にある。幼い頃に母を亡くした鏡花が、よく遊んだ卯辰山を眺めながら詠んだ「はゝこひし夕山桜峰の松」という句が刻まれている。
喜多家は幕末に造り酒屋を営んでいたが、明治期に家屋を焼失。金沢市内からこの建物を移築した。軒両側の袖壁、軒下の「さがり」と呼ばれるひさし、1階のキムシコ格子や玄関の大戸、内部の灰模様を描いた囲炉裏やオエの高い梁組み、帳場など、19世紀半ば藩政期の金沢の典型的な町家形式を見ることができる。国指定重要文化財。
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