杣山城址
眺望のよい杣山は、古くから北陸道の軍事拠点の城が築かれた場所。南北朝時代には南朝軍の拠点となり、新田義貞はこの城にたてこもり再起を図った。周辺は国の史跡に指定され、殿池や姫穴、犬戻り駒返しなどみどころが点在。頂上までの遊歩道をたどり、約1時間20分のハイキングが楽しめる。
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眺望のよい杣山は、古くから北陸道の軍事拠点の城が築かれた場所。南北朝時代には南朝軍の拠点となり、新田義貞はこの城にたてこもり再起を図った。周辺は国の史跡に指定され、殿池や姫穴、犬戻り駒返しなどみどころが点在。頂上までの遊歩道をたどり、約1時間20分のハイキングが楽しめる。
半島の先端にある。日本人がはじめて設計から建設まで手がけた洋風灯台第1号で、今も現役で船を導いている。
幕末期の大野藩の藩政再建に尽くした家老・内山七郎右衛門の屋敷を復元。母屋と離れ、米蔵などがある。母屋には、天井の空間を広く使うための2階の舟底天井や、井戸のある台所などが設けられ、造りが興味深い。当時の調度品からも生活の様子が偲ばれる。
慶長6年(1601)、京極高次[きょうごくたかつぐ]が築城に着手し、小浜藩祖・酒井忠勝[さかいただかつ]が寛永13年(1636)に完成させた小浜城。以後は小浜藩の居城となったが、明治4年(1871)の出火のため、現在は本丸や天守閣の石塁だけが残る。本丸跡には小浜神社が立つ。
明治から昭和初期にかけて港を中心に国際的な都市として発展した敦賀。その当時の面影を今もとどめる建造物だ。明治38年(1905)に紐育[ニューヨーク]スタンダード石油会社によって建てられた。平成27年(2015)10月には、敦賀の明治後期から昭和初期のまちなみを再現して、史実とエンターテインメント性を両立させた「鉄道と港のジオラマ」と「敦賀ならではの魅力的なレストラン館」として生まれ変わった。
縄文時代の遺跡が数多く残る若狭町にある公園。広大な敷地の中に、縄文時代を体感できる若狭三方縄文博物館「DOKIDOKI館」を中心に、野外ステージで各種イベントが行われる縄文コロセウムや野鳥観察小屋などがある。縄文広場には縄文時代の竪穴住居や縄文の森、環状列石等を再現し、縄文文化にふれることができる。また、パーク内には福井県年縞博物館がある。
天正4年(1576)、柴田勝家の甥である勝豊が築城。天守は2層3階建てで、上層に望楼があり、屋根は石瓦葺き。北陸地方で唯一の現存天守で、国の重要文化財に指定されている。天守の東北側にある「一筆啓上…」の石碑は、日本一短い手紙として有名。徳川家康の功臣・本多作左衛門重次が、陣中から妻にあてて書き送ったものだ。周囲は霞ヶ城公園として整備され、春には桜が咲き誇る名所。
城下町大野のシンボル。織田信長の家臣・金森長近[かなもりながちか]が天正4年(1576)頃から築いた平山城で、安永4年(1775)の大火で本丸を焼失したが、寛政6年(1795)に再建。明治初年(1868)に取り壊された。野面積[のづらづみ]といわれる技法で造られた石垣だけは当時のまま残っている。現在の天守は昭和43年(1968)に再建されたもので、内部には歴代城主の遺品や古文書などを展示。最上階からは眼下に大野の町並み、遠くには白山連峰が眺められる。“天空の城”といわれるだけに、秋から春にかけて雲海が市街を包み込む早朝には朝霧の中に浮かび上がる情景は幻想的。
室町末期から江戸初期に建てられた中世地方豪族の坪川家の住宅で、国の重要文化財にも指定されている。茅葺き屋根の建物は、正面が入母屋造で背面が寄棟造。「にわ」と呼ばれる土間には、いつでも水が使えるように裏山から水を引いた流し場があるなど、当時の豪族の生活様式がうかがえる。広い板の間の「おえ」を利用して営業する「千古Cafe」は完全予約制で、コーヒーや十割そば、竹田の山菜料理などがおいしいと好評だ。6月の菖蒲園、紅葉期の国登録記念物の庭園もおすすめ。
人魚の肉を食べて永遠の命を手に入れたという八百比丘尼の伝説が残る小浜。その伝説にちなみ、長寿の祈りが込められた二体の人魚像が小浜湾のテラスに立つ。美しい夕日が見られるスポットとしても知られている。
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