
不老橋
玉津島神社向かい側の橋。紀州藩主徳川治宝が嘉永4年(1851)に造らせた当時としては珍しい石組みのアーチ橋。徳川家が紀州東照宮に参拝する際におなり橋として渡っていた。
- 「紀三井寺駅」から徒歩23分
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玉津島神社向かい側の橋。紀州藩主徳川治宝が嘉永4年(1851)に造らせた当時としては珍しい石組みのアーチ橋。徳川家が紀州東照宮に参拝する際におなり橋として渡っていた。
熊野古道の要所であり、五体王子の次に重要とされた王子。日置川に架かる北野橋を渡ってすぐの所に近露王子之跡と刻まれた自然石の碑がある。また、江戸時代に宿場町として栄えた、近露の里の山里風景も広がる。
熊野川を見下ろす高台にある公園。新宮城(丹鶴城)は寛永10年(1633)に完成し、浅野氏2代、水野氏10代と続いた三万五千石の居城だった。名前は、築城前に源為義の娘である丹鶴姫が開いた東仙寺があったことから。太平洋をよく見渡せるため沖見城とも呼ばれた。明治時代に城はとり壊されたが、表面を美しく加工した切石で積む算木積み[さんぎづみ]の石垣が残っている。熊野川沿いの水ノ手からは水野氏の経済活動を示す炭納屋群が発見されている。国史跡「新宮城跡附水野家墓所」。
昭和32年(1957)2月、日ノ御崎沖で火災を起こした徳島県の機帆船の乗組員を、デンマークの貨客船エレン・マークス号の機関長ヨハネス・クヌッセンが救助しようとした際、荒天で波にのまれて水死した。この遺徳を偲んで建てられた胸像が、日の岬パークの駐車場近くにある。
明治時代に創業した、JR高野口駅前にある木造3階建の元旅館。内部は旅館を営業していたころの姿が残され、高野山参詣の人でにぎわった当時をしのぶことができる。
高野山にある徳川家康・秀忠親子の霊を祭る2基の霊屋[たまや](重要文化財)。向かって右側が家康、左側が秀忠。3代将軍家光が寛永20年(1643)に建立。いずれも約6m四方の一重宝形[ひとえほうぎょう]造で、銅瓦葺の屋根の頂に露盤を載せ、周囲に縁と勾欄[こうらん]を配している。正面の向拝[こうはい]は唐破風[からはふ]。家康は寅、秀忠は兎の干支の彫刻がある。内部は非公開。壁面・天井・厨子にいたるまで、金銀の蒔絵や極彩色の装飾金具など絢爛豪華な飾りが施されている。
東くめは日本で初めて口語体による童謡を作詞した人。作曲家の滝廉太郎とのコンビで、『鳩ぽっぽ』『お正月』など不朽の名作を多数残した。新宮の名誉市民であり、新宮駅前に『鳩ぽっぽ』の歌碑が建てられている。
新宮駅の近くにある、中国風の楼門がひときわ鮮やかな公園。園内には、徐福の墓や顕彰碑、徐福の重臣たち7人を祭った七塚の碑などがある。徐福とは、中国の歴史書『史記』によれば、今から約2200年前、秦の始皇帝に方土(仙術者)として仕えた人。皇帝の命を受け不老不死の霊薬を探しに、東方に浮かぶ蓬莱の島に向かって出航した。熊野で不老長寿の木といわれる天台烏薬を見つけたが、気候温暖で風光明媚な土地柄を気に入り、熊野を永住の地とした。土地を開拓し、農耕、漁法、紙すきなどの技術を伝えたといわれる。毎年8月12・13日には徐福を供養する万燈祭が行われ、花火等で賑わう。
平重盛の家臣・滝口入道[たきぐちにゅうどう]を慕い、悲恋の内に没した女官横笛を弔う塚。
日本最古の石造灯台。イギリス人が設計と建設にあたり、明治3年(1870)に初点灯。現在は自動点灯の無人灯台のため、内部は非公開になっている。スイセンの名所としても知られ、12~2月になると花が咲き、周囲はさわやかな香りで包まれる。かつて常駐していたイギリス人技師が植えたものと言われている。
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