
不老橋
玉津島神社向かい側の橋。紀州藩主徳川治宝が嘉永4年(1851)に造らせた当時としては珍しい石組みのアーチ橋。徳川家が紀州東照宮に参拝する際におなり橋として渡っていた。
- 「紀三井寺駅」から徒歩23分
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玉津島神社向かい側の橋。紀州藩主徳川治宝が嘉永4年(1851)に造らせた当時としては珍しい石組みのアーチ橋。徳川家が紀州東照宮に参拝する際におなり橋として渡っていた。
熊野霊場の入口とされ、九十九王子の中でも格式が高いとされた「五体王子」のひとつ。後鳥羽上皇や貴族が熊野詣に訪れた際には、ここで体を浄め、歌会などを行ったといわれている。滝尻王子の奥からは険しい山道が続く。
日本最古の石造灯台。イギリス人が設計と建設にあたり、明治3年(1870)に初点灯。現在は自動点灯の無人灯台のため、内部は非公開になっている。スイセンの名所としても知られ、12~2月になると花が咲き、周囲はさわやかな香りで包まれる。かつて常駐していたイギリス人技師が植えたものと言われている。
吉宗が紀州藩主だった正徳2年(1712)に設置された鐘楼。2階部分に吊り下げられた鐘は、大坂夏の陣で豊臣方が使用した大砲を利用して鋳造したものと伝えられている。
安政元年(1854)に発生した安政南海地震の際、広村に帰郷していた濱口梧陵は火をつけた稲むらを目印に村人を避難させた。梧陵の行動に基づいた話は、昭和12年(1937)から約10年間、防災教材「稲むらの火」として小学校の国語の教科書に掲載されていた。津波被害を受けた村を見た梧陵は、津波に備えるために私財を投じて防潮堤を完成させた。梧陵が築いた広村堤防により、広川町は昭和の南海地震による津波被害から免れることができた。
平安時代に16歳で養父母を失い、親の菩提を弔うために黒髪を売って奥の院の燈籠堂に献燈した孝女お照の供養碑。
和歌山市東部の丘陵地にある面積約67万平方mの県立博物館施設。広大な敷地には、特別史跡に指定される岩橋千塚古墳群(約430基)を中心に、復元した古墳時代の竪穴住居や県内の代表的な民家を移築している。緑多い園内には散策コースが設けられており、自然を楽しみながらのウォーキングにも最適。丘陵の上からの眺めはすばらしく和歌山市街地・紀ノ川や和泉山脈を一望できる。広大な敷地のため、まず中心的な施設で考古・民俗資料を展示する紀伊風土記の丘資料館に立ち寄り、どこを見るかポイントを絞ってから回りたい。
熊野古道の要所であり、五体王子の次に重要とされた王子。日置川に架かる北野橋を渡ってすぐの所に近露王子之跡と刻まれた自然石の碑がある。また、江戸時代に宿場町として栄えた、近露の里の山里風景も広がる。
西行とその妻娘を偲んで建てられ、古くから高野山の僧や一般のお参りが多かったとされる。昭和61年(1986)の再建。堂の下に妻娘の墓がある。
燈明崎にある。天平勝宝4年(754)、吉備真備らが唐からの帰途に海上で暴風雨に遭い、紀伊国牟漏崎に漂着したとの記述が『続日本紀』にみえる。さらに文政年間(1818~1830)の文献には、吉備真備の一族がこの地に定住し、太地の村を開いたとも記されている。記述に現れる牟漏崎とは現在の燈明崎といわれており、記念碑が建てられている。
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