
報恩寺
紀州徳川家の菩提寺。初代藩主・頼宣の正室や吉宗夫人の寛徳院など、歴代藩主夫人の墓所が境内にある。
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紀州徳川家の菩提寺。初代藩主・頼宣の正室や吉宗夫人の寛徳院など、歴代藩主夫人の墓所が境内にある。
玉津島神社に隣接するもと玉津島神社の祓所[はらいじょ]。海の幸、安産の神様として親しまれてきた神社で、主祭神の塩槌翁尊[しおづちのおじのみこと]は輿の窟[こしのいわや]とよばれる岩穴に鎮座する。傍らに山部赤人[やまべのあかひと]の「若の浦に潮満ちくれば…」の歌碑がある。国指定名勝に指定されている。
1月1~3日は地元をはじめ近畿圏から35万人の参拝者が訪れる。紀伊国で最も信仰を集めた一の宮、平安初期に定められた延喜式内社、戦前まで国が助成した旧官幣[かんぺい]大社の歴史が示すとおり格式は高い。境内の一番奥まったところ左側に日像鏡[ひがたのかがみ]を祭る日前神宮、右側に日矛鏡[ひぼこのかがみ]を祭る國懸神宮があり、地元では2社を通称して日前宮とよばれている。
和歌の浦・玉津島は風光明媚だったことから万葉の時代より和歌に数多く詠まれてきた。和歌の神を祀る神社として朝廷をはじめ多くの歌人の信仰を集める。稚日女尊[わかひるめのみこと]など3神を祀る境内には、小野小町袖掛の塀、根上がり松があり、春には衣通姫桜[そとおりひめざくら]が咲く。国指定名勝に指定されている。
木の国、紀伊国の語源となった木の神、五十猛命を祀る古社で、一之宮。樹木の神、厄除け、大漁・航海安全の神としても知られる。『古事記』には因幡の素兎の続きに御祭神が大国主神を災厄から救った神話が記されており、この神話にちなむ厄除け木の俣くぐりが有名。また病人が飲むと元気になるという「いのちの水」も湧いている。
1000年以上の歴史がある神社。徳川頼宣が和歌山城に入城してから城の守り神となり、吉宗の誕生時、この社の宮司が仮の親になったという。神馬の像は吉宗の寄進とされる。
元和7年(1621)、紀州藩主・徳川頼宣公が父家康公を祀るために創建した権現造の神社。日光東照宮と同様、絢爛豪華な社殿周囲には、左甚五郎作の彫刻や狩野探幽の壁画がある。朱塗の楼門をはじめ、拝殿・本殿など7棟が国の重要文化財に指定。和歌祭のひとつ神與渡御[みこしとぎょ]が行われ、神輿をかついだ男衆が108段の階段を勇壮に練り下り、1000人の行列が続く。
学問の神様、菅原道真が大宰府に左遷された折、和歌浦に立ち寄ったことから創建された神社。受験シーズンともなると、合格祈願者で賑わう。急な石段を上り詰めると、楼門(重要文化財)と桃山風の華麗な本殿(重要文化財)がある。
新義真言宗の総本山。長承元年(1132)、宗祖覚鑁上人(興教大師)が高野山に大伝法院を創建したことに始まる。南北朝から室町時代にかけて大きく発展し境内に多くの院家を擁する一大宗教都市となった。現存する本尊(重要文化財)や大塔(国宝)もこの頃に再建されたもの。天正13年(1585)、天下統一をめざす秀吉の紀州攻めにより堂塔・院家の多くを焼失したが、江戸時代には紀州徳川家の支援などを得て復興した。現在、境内地の大部分は国の史跡に指定されている。桜や紅葉の名所としても有名。
平安初期に弘法大師が開創した仏教の聖地・高野山。本来の総本山金剛峯寺とは、「一山境内地」といわれるように高野山全体を指すが、壇上伽藍の東北に位置する「総本山金剛峯寺」は、高野山真言宗管長が居住し、高野山全体の宗務を司っている寺院。明治初期に、豊臣秀吉が建立した青巌寺と興山寺が合併し、寺号を金剛峯寺と改め総本山が置かれた。約16万平方mという広大な境内には、檜皮葺きの大屋根を持つ東西54m、南北63mの主殿(本坊)をはじめ、経蔵や鐘楼、別殿、奥殿、阿字観道場などが立ち並ぶ。奥殿の石庭・蟠龍庭が見事。
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