
中言神社
中言神社は、夫婦二柱の神を主祭神とし、子供の生育成長を守り、縁結び、家内安全、陰陽和合の神として、中言の名も神と人との「中」を執りもつ「こと(言)」より出て、人々に崇敬されている。万葉の太古より歌所として「萬葉集」に詠まれている「黒牛潟」は、神社の境内周辺で、地名として詠まれている。
- 「黒江駅」から徒歩13分/「海南駅」から徒歩23分
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中言神社は、夫婦二柱の神を主祭神とし、子供の生育成長を守り、縁結び、家内安全、陰陽和合の神として、中言の名も神と人との「中」を執りもつ「こと(言)」より出て、人々に崇敬されている。万葉の太古より歌所として「萬葉集」に詠まれている「黒牛潟」は、神社の境内周辺で、地名として詠まれている。
小栗判官を中興の祖とする古刹。小栗は湯の峰温泉に向かう途中、病気になった愛馬の回復をこの寺で祈願。たちまち全快したことに感激し、堂宇を再建したと伝わる。今では開運厄除の霊場として広く信仰されており、山上に諸堂が点在している。
浄瑠璃で知られる石童丸[いしどうまる]物語ゆかりの寺。石童丸が高野山に父を捜しに行っている間に母千里御前[ちさとごぜん]が没し、ここが菩提寺となった。堂内には守り刀や人魚のミイラと伝わる寺宝があり、拝観する場合は西光寺に申し込む。
壇上伽藍とともに高野山の二大聖地といわれる奥之院。墓石や供養塔が並び立つ約2kmの参道の最奥に位置するのが弘法大師(空海)の御廟。参道の最後の橋・御廟橋を渡った先、御廟の拝殿にあたる燈籠堂の背後に立つ、檜皮葺きの宝形造の御堂。大師が自らこの地に廟所を定めたとされ、大師62歳の承和2年(835)、即身成仏となって入定。入定後から現在まで1日2回行われている「生身供[しょうじんぐ]」は御廟の空海に食事を届ける儀式で、大師は今もこの御廟で瞑想しながら救いの手を差しのべているといわれる。
開山以来、表玄関の役割を果たす高野山一山の総門。九度山町の慈尊院から続く町石道の表参道を上ると、ここからが山内となる。開創当時は現在の位置から500m下の九折谷の谷底に木の鳥居があった。高さ約25mの現在の朱塗の楼門は、宝永2年(1705)に再建されたもの。昭和61年(1986)にも大がかりな解体修理が行われた。大門の両脚に構える高さ4.8mの力強い金剛力士像は、阿形像を仏師康意が、吽形像を法橋運長が造ったとされている。ここからの眺望がよく、晴れた日には山並みの向こうに紀淡海峡から淡路島まで望める。また、大門の左の赤い鳥居から原生林に囲まれた山道を約600m登ると、高野山最高峰の弁天岳に至る。
龍神温泉元湯前の高台に立つ温泉寺は、弘法大師が開湯の折に瑠璃光薬師如来[るりこうやくしにょらい]を安置した草庵が始まり。宝永2年(1705)に明算[みょうざん]という僧侶が頑固な腫れ物を治した礼に薬師堂を再建したといわれる。
天文9年(1540)、吉原(現美浜町)に湯川直光が建立した浄土真宗本願寺派の寺。豊臣秀吉の紀州攻めの際に焼失し、文禄4年(1595)、現在地に移転。以来「御坊さん」と呼ばれ、御坊市の名の起こりとなった。文政8年(1825)に現在の本堂が再建。明治10年(1877)、別院の称号を得た。境内には、樹齢423年のイチョウの巨木(和歌山県天然記念物)がそびえる。境内にある御坊幼稚園は、大正4年(1915)設立、和歌山県内一の歴史ある幼稚園である。
弘仁7年(816)に弘法大師が高野山開山のために雨引山麓に政所(寺務所)として建立した古刹。高野山表参道の入口にあり、宿泊所も兼ねていた。開山当時は女人の高野参りはここまでで、大師を訪れた母親もここで逗留。そのため大師は月に9度下山し、そのことから九度山[くどやま]の地名が付いた。境内にある弥勒堂[みろくどう](重要文化財)は、母親没後、信仰を寄せていた本尊の弥勒仏坐像[みろくぶつざぞう](国宝)を安置して大師の母の「御廟所」とした。4方3間、宝形造、檜皮葺[ひわだぶき]の堂で、平安時代末期の堂宇建築の特徴を残す。また女人高野ともよばれ、現在も安産、子授け、乳ガン平癒などへの信仰が篤い。
高野山奥之院の入口は一の橋。参道はここから弘法大師御廟までの約2km。参道両側には、戦国武将や大名、高僧、宮家など、鎌倉時代から現代まで約20万基の墓碑が並ぶ。国指定重要文化財の結城秀康霊廟や佐竹義重霊屋、上杉謙信・景勝霊屋をはじめ、御廟橋までには参道内最古の墓碑という源氏の祖・多田満仲の墓、高さ約10mの参道内最大の墓石で通称・一番石塔の崇源院墓(徳川秀忠夫人墓)なども。中の橋脇には衆生の苦を代わって受けて汗をかいている汗かき地蔵と、水面に映る姿の濃淡により命の長短が分かるという姿見の井戸もある。
平安初期に弘法大師が開創した仏教の聖地・高野山。本来の総本山金剛峯寺とは、「一山境内地」といわれるように高野山全体を指すが、壇上伽藍の東北に位置する「総本山金剛峯寺」は、高野山真言宗管長が居住し、高野山全体の宗務を司っている寺院。明治初期に、豊臣秀吉が建立した青巌寺と興山寺が合併し、寺号を金剛峯寺と改め総本山が置かれた。約16万平方mという広大な境内には、檜皮葺きの大屋根を持つ東西54m、南北63mの主殿(本坊)をはじめ、経蔵や鐘楼、別殿、奥殿、阿字観道場などが立ち並ぶ。奥殿の石庭・蟠龍庭が見事。
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