
牛馬童子像
高さわずか50cmの像で、平安時代の花山法皇の旅姿を偲んで彫られた石仏。記念撮影スポットとしても人気で、その愛らしい姿が訪れる人の心を癒してくれる。近くには、のどかな田園風景を一望できる東屋も。
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高さわずか50cmの像で、平安時代の花山法皇の旅姿を偲んで彫られた石仏。記念撮影スポットとしても人気で、その愛らしい姿が訪れる人の心を癒してくれる。近くには、のどかな田園風景を一望できる東屋も。
東くめは日本で初めて口語体による童謡を作詞した人。作曲家の滝廉太郎とのコンビで、『鳩ぽっぽ』『お正月』など不朽の名作を多数残した。新宮の名誉市民であり、新宮駅前に『鳩ぽっぽ』の歌碑が建てられている。
紀ノ川流域随一の大規模民家。土塀で囲まれた約2200平方mの敷地には主屋をはじめ、北蔵、内蔵、長屋蔵、味噌部屋、茶室、人力車庫などが立ち並び、江戸時代末期の和佐組大庄屋にふさわしい屋敷構えを残している。本瓦葺き、入母屋造りの主屋は嘉永5年(1852)の建築、3階の望山楼や20畳敷の大広間を持ち、表門・長屋蔵・北蔵・内蔵・御成門とともに国の重要文化財に指定されている。
日高町原谷地区と広川町井関地区をつなぐ熊野古道にある峠道。かつては難所の一つとされたが、今では散策路が整備されている。熊野古道に現存するもののなかで最も長い石畳道が残り、健脚者向きのハイキングコースとしても親しまれている。
熊野川を見下ろす高台にある公園。新宮城(丹鶴城)は寛永10年(1633)に完成し、浅野氏2代、水野氏10代と続いた三万五千石の居城だった。名前は、築城前に源為義の娘である丹鶴姫が開いた東仙寺があったことから。太平洋をよく見渡せるため沖見城とも呼ばれた。明治時代に城はとり壊されたが、表面を美しく加工した切石で積む算木積み[さんぎづみ]の石垣が残っている。熊野川沿いの水ノ手からは水野氏の経済活動を示す炭納屋群が発見されている。国史跡「新宮城跡附水野家墓所」。
玉津島神社の向かいにある妹背山[いもせやま]。そこにかかる和歌山県内最古の石橋、三断橋を渡ると、和歌浦から紀三井寺を遥拝するため徳川頼宣が建立したとされる水上楼閣がある。現在の建物は昭和38年(1963)に復元されたもの。景勝地としても有名で、名草山にかかる美しい月が眺められる。観海閣を含む「和歌の浦」が国名勝に指定。
会津川河口付近にかかる田辺大橋のたもとにある。田辺領主・安藤家が居城とした錦水城(田辺城)の水門で、会津川への出入門として利用されていた。現在はその石垣だけが残されている。
中辺路から来ると、本宮大社の2つ手前にある王子で熊野九十九王子の一つ。熊野古道を歩いてきた参詣者が、ここに来て、初めて遠くに熊野本宮大社を眺め伏し拝んだことから、この名が付いた。現在でも東南に大斎原が望める。石祠のそばには、平安時代の歌人、和泉式部[いずみしきぶ]供養塔が立つ。
江戸時代の外科医・華岡青洲の診療所。文化元年(1804)、全身麻酔による外科手術に成功した青洲が患者の治療を行った主屋、門下生に医学を教えた門下生部屋、入院患者のための病室などが復元されている。内部には人形・音声ガイド・ビデオによる解説があり、当時を偲びながら青洲の業績を学べる。
昭和32年(1957)2月、日ノ御崎沖で火災を起こした徳島県の機帆船の乗組員を、デンマークの貨客船エレン・マークス号の機関長ヨハネス・クヌッセンが救助しようとした際、荒天で波にのまれて水死した。この遺徳を偲んで建てられた胸像が、日の岬パークの駐車場近くにある。
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