
光照寺
良寛が18歳のとき仏門に入る決心をし、住職玄乗破了[げんじょうはりょう]和尚により剃髪を受けた寺。名を良寛と改め大愚[たいぐ]と号し、備中玉島の円通寺へ旅立つまでの4年間をここで修業をした。
ジャンル/こだわり条件等を指定して検索できます。
良寛が18歳のとき仏門に入る決心をし、住職玄乗破了[げんじょうはりょう]和尚により剃髪を受けた寺。名を良寛と改め大愚[たいぐ]と号し、備中玉島の円通寺へ旅立つまでの4年間をここで修業をした。
御祭神は天照大御神の曾孫にあたる天香山命[あめのかごやまのみこと]。神武東征の折、紀州熊野で敵の毒気に当てられ苦境に陥った天皇に布都御魂剣[ふつのみたまのつるぎ]を献じて危機を救ったことから起死回生・厄難消除の神と謂われる。天皇即位後は越の国開拓の勅命を受けて当地に来臨され、民に稲作・漁業・製塩・酒造などの技を授け、県内産業の基を築いた諸産業の神。古来より皇室を始め歴代の幕府・武将の尊崇篤く、今も「おやひこさま」の敬称にて広く崇敬されている。現在の社殿は明治末の大火後、大正5年(1916)に再建された。
永承4年(1053)の創建で、越後三十三観音の一つ。その境内の眼下に海を望む高台には、良寛が生涯で3度ほど移り住んだことがある密蔵院がある。平屋建のひっそりとしたたたずまいの庵で、托鉢に出たり、掃除をしたりと良寛芸術が開花する前の一時期を過ごした。数多く残された詩や歌が、ここでの簡素な暮らしぶりを伝えている。
鎌倉時代、永仁5年(1297)日蓮の孫弟子日印によって開山され、大本堂と七堂伽藍が壮麗に立ち並び、塔頭10カ院が守る。厄よけ開運を祈る「節分大祈願会」の鬼おどりは、多勢の参詣者でにぎわう。越後のミケランジェロ石川雲蝶の墓と、彫刻群があることでも有名。
安土桃山時代の開基で、新発田藩主溝口家の菩提寺。本堂裏には、苔むした歴代藩主夫妻の大きな墓塔20数基が整然と並ぶ。淨見堂には歴代藩主の肖像画12幅(市指定文化財)などの寺宝を展示。
日本海を間近にして広がる「ときわの森」は、「護國神社周辺の海岸」として「日本の白砂青松100選」にも選ばれた景勝地。その松林内に鎮座する護國神社は、明治元年(1868)に「招魂社」として創建。1万6800坪の境内には、本殿を中心に、平成30年(2018)に造営された御神門・回廊、結婚式場の迎賓館TOKIWAなどが点在。本殿脇には、御神門造営と同時に設置された授乳室・パウダールーム完備の祈祷者待合応接室もあり、境内はバリアフリー化されている。北原白秋や坂口安吾の碑を巡っての散策スポットでもある。
日本海を見下ろす眺望の地に立つ寺泊の総鎮守。江戸時代から船乗りたちが海上安全を願って船絵馬を奉納してきた。船の構造や帆印、船員なども描かれたこの船絵馬は、北前船造船史、航海史などの貴重な資料として、国の重要民俗文化財となっている。境内の船絵馬収蔵庫に50種類、52枚が保存されている(絵馬収蔵庫拝観は要予約)。
古くから周辺随一の霊場として崇められてきた越後屈指の古刹。高野山で修行を積み、貞治2年(1363)に西生寺草庵で即身仏となった、弘智法印[こうちほういん]の日本最古の即身仏が安置されている。親鸞[しんらん]上人や松尾芭蕉も参詣した。
こんぴら通り商店街の入口に鎮座。嘉永5年(1852)から明治24年(1891)の北前船全盛期に、和船模型を奉納し海上安全を祈願した神社。当時、船を造ると実物そっくりの模型も作り、船を守るこの神社に納めていた。今では貴重な資料となった精巧な模型28隻は国指定重要有形民俗文化財となっている。和船模型の見学は事前に電話を。
全国でここだけという「願懸け高麗犬」のある神社。新潟市有形文化財指定第1号の高麗犬で、船運が盛んになった幕末、船乗り相手の遊女たちは、男たちが去って行かないよう、西風で海が荒れて船が出ないことを願い高麗犬を西に向けたという。男性は向って右側の、女性は左側の高麗犬を回して祈願する。
運行情報はありません。
路線が登録されていません。
路線登録で登録した路線の運行情報が表示されます。
路線を登録すると、登録した路線の運行情報が右サイドで表示される機能です。
トップページ、電車関連ページで表示されます。
エリアを登録すると、登録したエリアの天気情報が表示されます。