
善光寺 延命地蔵尊(如来堂跡)
善光寺草創以来、本堂があった場所で、現在は「如来堂旧地」と記された石碑が立つ。初代の地蔵尊は、現本堂ができた5年後に造立された。現在の地蔵尊は昭和24年(1949)に造立された。
- 「善光寺下駅」から徒歩9分/「権堂駅」から徒歩14分
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善光寺草創以来、本堂があった場所で、現在は「如来堂旧地」と記された石碑が立つ。初代の地蔵尊は、現本堂ができた5年後に造立された。現在の地蔵尊は昭和24年(1949)に造立された。
バス停戸隠奥社入口からすぐの鳥居と奥社を結ぶ参道の中ほどにある。茅葺き屋根が時代を感じさせる朱塗りの門で、左右の随身像が参拝者を迎える。車乗り入れ不可。ここからは樹齢400年を超える杉並木が400mほども続く静寂の世界だ。
広々とした丘の上には、菅平とスイスのダボス町との姉妹都市提携を記念して立てられたダボスの塔やシュナイダー記念塔がある。4~9月は高原の花々が、10月中旬~11月中旬は紅葉が美しい。
戦国時代の山城・荒砥[あらと]城を再現したもの。受付のある四の郭から頂上の本郭まで、連郭式でつくられている。二の郭には櫓[やぐら]・兵舎があり、兵舎内の映像室では荒砥城の歴史をビデオ上映しているほか、展示室では戦国時代の出土品などを展示している。櫓や本郭からは雄大に流れる千曲川と戸倉上山田温泉街、善光寺平までのすばらしい眺めが楽しめる。
万葉橋のたもとに整備された公園。万葉の時代から現在まで、信濃を詠いあげた27の歌碑が並ぶ。五木ひろしさんの名曲『千曲川』の歌碑は、スイッチを押すと美しい歌声が流れる。ここを起点に文芸の里散策をスタートしてみては。
長国寺の奥にある松代真田家の初代藩主真田信之公の霊屋。信之夫妻の位牌が安置されている宝殿は、桁行3間、梁間4間の撞木屋根の入母屋[いりもや]造で、唐破風[からはふ]や千鳥破風が付いた堂々たるもの。万治3年(1660)の建立で、昭和55年(1980)に解体復元された。宝殿内外には、狩野探幽筆と伝えられている天井画や左甚五郎作と伝えらえる破風の鶴の彫刻など、すばらしい装飾が施されている。
第2次大戦末期の昭和19年(1944)、本土決戦最後の拠点として大本営、政府各省を松代に移すという極秘の計画のもと、象山、舞鶴山、皆神山の三カ所で碁盤の目状に、全長約10kmの地下濠が掘られた。当時で約2億円の資金と、延べ300万人の労働者を動員したが、全行程の75%まで進んだところで終戦を迎え、工事は中止された。現在は長野市が管理し、その一部500mの区間が見学コースとして整備され、戦争の歴史を語っている。駐車場から地下壕入口まで徒歩7分。
文久2年(1862)、参勤交代制が緩和されたのに伴い、9代藩主・幸教[ゆきのり]が、江戸から松代へ帰ることになった母・貞松院のために建てた城外御殿。敷地約8000平方m。主屋・冠木門・長屋・土蔵など、大名屋敷の様子を今に伝える貴重な建物で、部屋数は35室にも及ぶ。座観式の池泉庭園は四季折々、訪れる者を楽しませてくれる。
須坂アートパーク内にある施設。武家長屋や明治時代の長屋門が移築・復元されている。
寛永元年(1624)、真田信之が設置。2時間ごとに鐘をつかせた。江戸時代の度重なる大火で2代目までの鐘は焼損し、3代目の鐘は太平洋戦争で供出。現在の鐘は、平成3年(1991)に付けられたものだ。嘉永2年(1849)、佐久間象山は日本で初めて電信機を作り、伊勢町御使者の居館からこの鐘楼まで電線を架けて通信に成功したと伝えられている。現在、内部見学は不可。毎日10時、15時に鐘を鳴らしている。
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