
美しの塔
美ヶ原産の鉄平石[てっぺいせき]でできた高さ6mの塔で、美ヶ原高原のシンボル的存在。ハイキング途中の絶好の撮影ポイントになっている。昭和29年(1954)に登山者の霧鐘塔として建てられたもので、霧の多い日に鐘を鳴らして道標の役割を果たした。現在の塔は、昭和59年(1984)に再建されたもの。壁面には美ヶ原高原の開拓者である山本俊一[やまもとしゅんいち]氏のレリーフが埋め込まれ、正面側には尾崎喜八[おざききはち]が詠んだ詩文『美ガ原高原溶岩台地』の一節が刻まれている。
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美ヶ原産の鉄平石[てっぺいせき]でできた高さ6mの塔で、美ヶ原高原のシンボル的存在。ハイキング途中の絶好の撮影ポイントになっている。昭和29年(1954)に登山者の霧鐘塔として建てられたもので、霧の多い日に鐘を鳴らして道標の役割を果たした。現在の塔は、昭和59年(1984)に再建されたもの。壁面には美ヶ原高原の開拓者である山本俊一[やまもとしゅんいち]氏のレリーフが埋め込まれ、正面側には尾崎喜八[おざききはち]が詠んだ詩文『美ガ原高原溶岩台地』の一節が刻まれている。
天正11年(1583)に真田昌幸が築城、徳川の大軍を2度撃退した歴戦の名城として知られる。関ケ原の合戦後破却されたが、その後、上田に移封された仙石忠政[せんごくただまさ]によって再建。近世後期には松平氏の居城となった。現在は上田城跡公園として整備され、隅櫓[すみやぐら]と石垣などが往時の面影を伝える。
戦国時代の山城・荒砥[あらと]城を再現したもの。受付のある四の郭から頂上の本郭まで、連郭式でつくられている。二の郭には櫓[やぐら]・兵舎があり、兵舎内の映像室では荒砥城の歴史をビデオ上映しているほか、展示室では戦国時代の出土品などを展示している。櫓や本郭からは雄大に流れる千曲川と戸倉上山田温泉街、善光寺平までのすばらしい眺めが楽しめる。
弘法山の山麓にあった塩田城は、元弘3年(1333)、塩田北条氏が滅亡した後、村上氏が統治したとされる。現在は、塩田城跡の石碑が静かに立ち、長野県の史跡に指定されている。その付近には約1.5kmにわたってあじさい小道が続き、7月上旬からガクアジサイが咲き誇る。
世界的に有名な江戸時代の浮世絵師、葛飾北斎は、知る人ぞ知る川柳の大家でもあり、渋温泉街には百八十七の句碑が点在している。温泉街を歩きながら北斎の粋な川柳を見てまわることができる。『誹風柳多留[はいふうやなぎだる]』八十五編の巻頭文「序」の御影石も立っている。所要1時間。
岩岳の麓を通る千国街道沿いにある石仏群。西国三十三番、坂東[ばんどう]三十三番、秩父三十四番を合わせた100体と弘法大師像や馬頭観音を含め、全部で187体の石仏が芝生広場を取り囲むように並ぶ。製作年などは定かでないが高遠石工の作と伝えられ、旅人の道中安全などを願ったもの。
一茶が中風のために65歳で亡くなるまでの半年近くを過ごした土蔵。柏原の大火で焼け出された一茶は、間口3間半、奥行2間2尺の質素な土蔵で生涯を閉じた。国の史跡に指定されている。近くにある明専寺[みょうせんじ]は一茶の菩提寺で、毎年11月19日の一茶忌には法要が行われる。
「春は名のみの風の寒さや」で始まる春を待ちわびる早春賦の歌。大正初期に作詞・吉丸一昌、作曲・中田章により発表された。北アルプスを望む絶好の場所に大きな歌碑が立つ。
江戸時代初期の庄屋で松本藩主も逗留した屋敷。重厚な土塀に300年の歴史を刻む本棟造りで、書院と庭園など家屋の一部が見学できる。庭池は「心」の文字を表わし、天和~貞享年間(1681~1688)の作庭。日本画家、山口蒼輪[やまぐちそうりん]の生家でもある。
千国街道沿いの親の原には木々に包まれて百体(現在は88体)の観音像がある。江戸時代、伊那高遠の石工の作といわれ、西国三十三カ所、坂東三十三カ所、秩父三十四カ所の礼所を合わせ百として観音礼所巡りができるように彫られたものという。
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