観音原
岩岳の麓を通る千国街道沿いにある石仏群。西国三十三番、坂東[ばんどう]三十三番、秩父三十四番を合わせた100体と弘法大師像や馬頭観音を含め、全部で187体の石仏が芝生広場を取り囲むように並ぶ。製作年などは定かでないが高遠石工の作と伝えられ、旅人の道中安全などを願ったもの。
- 「信濃森上駅」から徒歩15分
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岩岳の麓を通る千国街道沿いにある石仏群。西国三十三番、坂東[ばんどう]三十三番、秩父三十四番を合わせた100体と弘法大師像や馬頭観音を含め、全部で187体の石仏が芝生広場を取り囲むように並ぶ。製作年などは定かでないが高遠石工の作と伝えられ、旅人の道中安全などを願ったもの。
南軽井沢にある総合リゾート施設「軽井沢タリアセン」内にある洋館。フランス文学者、朝吹登水子が別荘として使用していた建物。昭和6年(1931)建築の国の登録有形文化財で、登水子の父である実業家・朝吹常吉が建てたもの。設計は軽井沢に多くの西洋建築を残したW.M.ヴォーリズ。豪華なサロンや、防音のために1階と2階の間に敷き詰められたおが屑なども当時のまま。各種イベントも開催。
作家の室生犀星は、大正9年(1920)に初めて軽井沢を訪れて以来、その魅力に惹かれ、亡くなる前年までの40数年間、毎夏をここで過ごした。この別荘は昭和6年(1931)に建てられた和風の平屋で、庭は犀星自らが築いたという。木立の中にひっそりたたずむ旧宅は、文学者が好んだ在りし日の軽井沢を今も伝えている。
江戸時代、宿場の人々に法令を広めるため、幕府から通達される法度や掟書を掲げた場所。古文書をもとに昭和58年(1983)に復元された。掲げられている高札の本物は追分宿郷土館に収蔵されている。
贄川駅から国道19号を塩尻方面へおよそ3kmほど行った、桜沢橋のたもとにある。江戸時代はここから南が尾張領、北が松本領だった。木曽路に入って最初の集落、桜沢で茶屋本陣を営んでいた百瀬栄[ももせさかえ]氏により、昭和16年(1941)に建立されたもので、石碑の裏には「歌ニ絵ニ其ノ名ヲ知ラレタル、木曽路ハコノ桜沢ノ地ヨリ神坂[みさか]ニ至ル南二十余里ナリ」と刻まれている。桜沢には今も、冠木門[かぶきもん]が立つ旧茶屋本陣百瀬家の建物が残っており、往時のたたずまいを伝えている。
福島関所の関守を務め、木曽代官も兼務していた山村氏の屋敷の一部を所蔵品と併せて公開。当時の屋敷は隣接する福島小学校の敷地一帯に広がっていたが、現存するのは下屋敷の一部だった城陽邸と付属の庭園、本邸の石垣の一部のみ。城陽邸は享保8年(1723)に再建された建物で、書院造の座敷を中心とした数室からなる。その一室には山村家の守り神、木やりを唄うキツネ・お末社様とよばれ崇拝されたキツネのミイラが祭られている。山村家家臣の漢学者・石作駒石[いしづくりくせき]の書斎翠山楼も敷地内にある。所要15分。
庭園の美しい大宝寺にある地蔵で、発見当時から首がなく、隠れキリシタンが観音像に似せてマリア像を作ったという伝説が残る。
福島宿の東端、木曽川の断崖に設けられた福島関所は中山道のほぼ中央に位置する。江戸時代には東海道の箱根と新居、中山道の碓氷と並ぶ重要な関所の一つとされ、厳重な取り締まりで有名だった。東西45m、南北30mの堂々たる関所は、明治2年(1869)の関所廃止後に取り壊されたが、昭和50年(1975)の発掘調査を基に史跡公園として整備されている。
木曽路の難所、鳥居峠を越える旅人が足を休めた宿場町。奈良井千軒と呼ばれ、木曽路十一宿の宿場の中でも一番の賑わいをみせた。度重なる火災に見舞われたが、江戸時代(天保年間以降)の建造物が多く残り、町並み全体が国の重要伝統的建造物群保存地区に選定。かつて漆櫛の問屋を営んでいた中村邸は国の重要文化財に指定。奈良井駅から南へ、千本格子の町並みが1kmほど続く。旅人が喉を潤した水場も随所にある。
大妻籠にある古民家で、17世紀中頃に建てられた、県内の民家でも有数の歴史ある建物。昭和53年(1978)県宝に指定された。
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