諏訪高島城
慶長3年(1598)、豊臣秀吉の武将、日根野織部正高吉[ひねのおりべのかみたかよし]によって築城。当時諏訪湖の水が城際まで迫り湖上に浮いて見えたことから、別名・諏訪の浮城と呼ばれ、諏訪氏の居城であった。現在の天守閣は、昭和45年(1970)に復興されたもの。2階に高島城史料室、3階には展望台がある。
- 「上諏訪駅」から徒歩15分
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慶長3年(1598)、豊臣秀吉の武将、日根野織部正高吉[ひねのおりべのかみたかよし]によって築城。当時諏訪湖の水が城際まで迫り湖上に浮いて見えたことから、別名・諏訪の浮城と呼ばれ、諏訪氏の居城であった。現在の天守閣は、昭和45年(1970)に復興されたもの。2階に高島城史料室、3階には展望台がある。
上田城跡の本丸東虎口櫓門の北側、石垣に組み込まれた大石で、柱石として据えたもの。松代に移封される時、真田幸村の兄信之が持ち去ろうとしたが、全く動かなかったという。
大手門は慶長17年(1612)、藩主・仙石越前守秀久が小諸城を築いた時代の建築で、当時としては瓦葦の門は珍しかったため、瓦門と呼ばれていたと伝えられる。実戦的な城門で、華美な装飾をはぶいた質実剛健な建設は、東日本を代表する大手門建築のひとつで、日本の城門発展の過程を知る重要な建物として青森県の弘前城とともに大手門の双壁といわれている。
現在の上田高等学校の敷地は、かつての上田藩主屋敷の跡にあたる。この屋敷は、藩政の中心施設である藩庁でもあった。同校東側の表門と、その両脇につづく土塀・濠[ほり]・土塁[どるい]は、昔の面影をよくとどめており、上田市の文化財に指定されている。表門周辺は、春から初夏にかけて、桜やつつじが美しく咲き誇る。
名が示す通り、霧ケ峰は深く濃い霧で覆われることが多く、濃霧の日にハイカーに方向を知らせるために、昭和34年(1959)、蛙原の頂上に霧鐘塔が設置された。霧のない日にはトレッキングの目印にもなる塔には、諏訪市出身の小説家・平林たい子による「鐘がものをいふ霧だ霧だと 鐘がものをいふ生きろ生きろと」という歌詞が刻まれている。
昭和41年(1966)、国の史跡に指定。周辺は遺跡公園として整備され、当時の住居を復元している。『四方眉月文深鉢[しほうまゆづきもんふかばち]』などの出土品は、近くの井戸尻考古館で見ることができる。水生・湿性植物園は古代ハスをはじめ、春から夏にかけて様々な花々に彩られる。
真田幸村の祖父、幸隆の時代からの拠点。周囲の城跡よりも広大な規模を誇り、いたるところに真田家の築城技術の確かさが垣間見られる。周囲を一望できる景観もみごとな場所だ。
世界的に有名な江戸時代の浮世絵師、葛飾北斎は、知る人ぞ知る川柳の大家でもあり、渋温泉街には百八十七の句碑が点在している。温泉街を歩きながら北斎の粋な川柳を見てまわることができる。『誹風柳多留[はいふうやなぎだる]』八十五編の巻頭文「序」の御影石も立っている。所要1時間。
弘法山の山麓にあった塩田城は、元弘3年(1333)、塩田北条氏が滅亡した後、村上氏が統治したとされる。現在は、塩田城跡の石碑が静かに立ち、長野県の史跡に指定されている。その付近には約1.5kmにわたってあじさい小道が続き、7月上旬からガクアジサイが咲き誇る。
下諏訪が中山道の宿場町として栄えていたころ、本陣として栄え、江戸時代には参勤交代の諸大名など身分の高い人を泊めるための旅館として使われていた。1861年(文久元)には皇女和宮[かずのみや]が徳川14代将軍家茂[いえもち]に嫁ぐ途中に宿泊し、その際利用した最奥座敷「玉座の間」が現在も残っている。約2650平方mの敷地には京風の武家屋敷や茶屋、土蔵などが立ち、当時を偲ばせる。また、銘石を配した築庭式石庭園は、中山道随一の名園といわれている。所要30分。
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