
北斎川柳句碑めぐり
世界的に有名な江戸時代の浮世絵師、葛飾北斎は、知る人ぞ知る川柳の大家でもあり、渋温泉街には百八十七の句碑が点在している。温泉街を歩きながら北斎の粋な川柳を見てまわることができる。『誹風柳多留[はいふうやなぎだる]』八十五編の巻頭文「序」の御影石も立っている。所要1時間。
ジャンル/こだわり条件等を指定して検索できます。
世界的に有名な江戸時代の浮世絵師、葛飾北斎は、知る人ぞ知る川柳の大家でもあり、渋温泉街には百八十七の句碑が点在している。温泉街を歩きながら北斎の粋な川柳を見てまわることができる。『誹風柳多留[はいふうやなぎだる]』八十五編の巻頭文「序」の御影石も立っている。所要1時間。
岩岳の麓を通る千国街道沿いにある石仏群。西国三十三番、坂東[ばんどう]三十三番、秩父三十四番を合わせた100体と弘法大師像や馬頭観音を含め、全部で187体の石仏が芝生広場を取り囲むように並ぶ。製作年などは定かでないが高遠石工の作と伝えられ、旅人の道中安全などを願ったもの。
山中での経験と技術を買われ、明治24年(1891)にウェストンを槍ケ岳に案内。以来、上高地の山案内人として名を馳せた上條嘉門次(1847~1917)の碑。松本市の稲核[いねこき]地区に生まれ、明治13年(1880)に明神池畔に小屋を建て猟師生活を送った。碑は嘉門次小屋の前に立つ。
戦国時代、武田信玄によって築城されたといわれる城。元和8年(1622)に真田信之が上田から移封されて以来、10代約250年にわたって真田氏が城主をつとめた。明治の廃城後、建物は取り壊されたが、櫓門や木橋などが復元され一般公開されている。国指定史跡。
第2次大戦末期の昭和19年(1944)、本土決戦最後の拠点として大本営、政府各省を松代に移すという極秘の計画のもと、象山、舞鶴山、皆神山の三カ所で碁盤の目状に、全長約10kmの地下濠が掘られた。当時で約2億円の資金と、延べ300万人の労働者を動員したが、全行程の75%まで進んだところで終戦を迎え、工事は中止された。現在は長野市が管理し、その一部500mの区間が見学コースとして整備され、戦争の歴史を語っている。駐車場から地下壕入口まで徒歩7分。
武田信玄と上杉謙信が戦った古戦場跡。公園に隣接する八幡社の境内には二人の一騎討ちを再現した「三太刀七太刀」の碑や銅像などが立つ。
江戸時代、北国街道の交通・商業の中心として賑わった宿場町。重要伝統的建造物群保存地区に選定されている。明治以降には宿場時代に使われていた広い部屋を利用し、養蚕・蚕種業の町となった。現在でも江戸時代さながらの風景が見られ、海野宿の歴史を見る事ができる「海野宿資料館」では、かつての暮らしがしのばれる。
名が示す通り、霧ケ峰は深く濃い霧で覆われることが多く、濃霧の日にハイカーに方向を知らせるために、昭和34年(1959)、蛙原の頂上に霧鐘塔が設置された。霧のない日にはトレッキングの目印にもなる塔には、諏訪市出身の小説家・平林たい子による「鐘がものをいふ霧だ霧だと 鐘がものをいふ生きろ生きろと」という歌詞が刻まれている。
慶長3年(1598)、豊臣秀吉の武将、日根野織部正高吉[ひねのおりべのかみたかよし]によって築城。当時諏訪湖の水が城際まで迫り湖上に浮いて見えたことから、別名・諏訪の浮城と呼ばれ、諏訪氏の居城であった。現在の天守閣は、昭和45年(1970)に復興されたもの。2階に高島城史料室、3階には展望台がある。
「国宝 松本城」の天守。5重6階の天守(国宝)を中心に渡櫓[わたりやぐら](国宝)で乾小天守[いぬいこてんしゅ](国宝)をつなぎ、辰巳附櫓[たつみつけやぐら](国宝)と月見櫓(国宝)を複合した独特の美しい構造。創建当時のまま現存する貴重な天守だ。外壁は白漆喰に黒漆塗りの下見板張りで、窓が少ない。内部に入ると、各階をつなぐ階段は急勾配なうえ、蹴上げが高く、居住性よりもむしろ戦闘への備えがうかがえる。最上階からは、美ヶ原高原や安曇平、北アルプスなどが展望できる。
運行情報はありません。
路線が登録されていません。
路線登録で登録した路線の運行情報が表示されます。
路線を登録すると、登録した路線の運行情報が右サイドで表示される機能です。
トップページ、電車関連ページで表示されます。
エリアを登録すると、登録したエリアの天気情報が表示されます。