
松原公園
屋形海岸沿いに広がる公園。松林の中に、土肥ゆかりの若山牧水や島木赤彦の歌碑、彫刻などが点在している。ここから見る夕日の美しさには定評があり、夕暮れ時の散策におすすめ。公園の一角には、5000本の花で彩られた直径31m、時針の長さ8.8mという世界一の花時計があり、土肥のシンボルになっている。足湯もあり、ドライブの途中ひと休みするのに好適だ。
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屋形海岸沿いに広がる公園。松林の中に、土肥ゆかりの若山牧水や島木赤彦の歌碑、彫刻などが点在している。ここから見る夕日の美しさには定評があり、夕暮れ時の散策におすすめ。公園の一角には、5000本の花で彩られた直径31m、時針の長さ8.8mという世界一の花時計があり、土肥のシンボルになっている。足湯もあり、ドライブの途中ひと休みするのに好適だ。
室岩洞は江戸時代から昭和29年(1954)まで石を切出していた採石場跡。当時の様相を残した場所で観光的に見学することのできる数少ない場所。
御前崎沖合を行き交う船の安全を守るために設置された灯台。寛永12年(1635)に常夜灯台が置かれたのが始まりで、その後、イギリス人技師ブラントンの指導によって明治7年(1874)に現在の西洋式灯台となって生まれ変わった。高さ17mの展望デッキに上ると、太平洋の大海原が正面に広がり、水平線まで見渡すパノラマは見事だ。
熱海駅前には明治末期から大正にかけて活躍した、熱海鉄道の蒸気機関車の車両が見られる。通称「ベンケイ号」と呼ばれ親しまれた。昭和51年(1976)に旧国鉄より「七号機関車」という名称で準鉄道記念物第1号に指定された。
流刑となった源頼朝が14歳から34歳までを過ごした地。平治の乱後、平清盛は源氏一族の血を絶つため頼朝を殺そうとしたが、清盛の継母池禅尼[いけのぜんに]の命乞いによって頼朝はこの地に流された。当時は中洲だった小島も、今では田園に囲まれた小さな公園に変わり、園内に記念碑が立つ。
JR金谷駅の南にある東海道の難所として知られた金谷峠。文政年間(1818~29)、幕府の命令によって、近隣の村人が滑り止めの石を敷き詰めた歴史を持つ。平成3年(1991)には「町民一人一石運動」によって、消滅しかけた金谷坂の石畳430mが復元され、深々とした木立の中、当時を偲びながら風情ある旧東海道を歩けるようになった。また、JR金谷駅西方の旧菊川宿近くにある菊川坂でも江戸後期の石畳が発掘され、平成13年(2001)には町内外の人々の手によって611mの石畳が復元されている。
旧道沿いの杉林の中にひっそりと立つ文学碑。川端康成の横顔のレリーフと、『伊豆の踊子』の有名な冒頭部分が刻まれている。
明治30年(1897)から6年間、読売新聞の「新小説」に掲載された尾崎紅葉の小説『金色夜叉』の舞台の一つとなったのが熱海の海岸。主人公の間貫一と鴫沢宮が熱海の海岸を散歩したという設定で、熱海サンビーチ沿いに立つお宮の松は、小説ゆかりの地のシンボルといえる。現在の松は2代目で、すぐそばには初代の松の幹の輪切りと、別れの場面を表現した「貫一・お宮の像」や「金色夜叉の碑」、「尾崎紅葉記念碑」がある。毎年1月半ばには、お宮の松前で「尾崎紅葉祭」が開催されている。
非公開の岩崎邸、現存しない住友邸と並び、「熱海の三大別荘」といわれた名邸。日本家屋の母屋と離れは大正後期、洋館と広大な庭園は昭和初期に造られたもので、熱海市有形文化財に指定されている。戦後は旅館として賑わい、太宰治ら多くの文化人も投宿した。現在は熱海市の所有となり一般公開されている。館内にはゆかりの文豪たちの資料展示室や喫茶室もある。所要40分。
来宮駅の南にある坪内逍遙[つぼうちしょうよう]の邸宅。屋敷は大正9年(1920)に建てられたもの。逍遙は、ここでシェークスピアの全訳を完成させた。建物は木造2階建ての日本家屋。庭先には名前の由来となった2本の柿の木と書斎がある。また、100m南の海蔵寺には逍遙夫妻の眠る墓がある。双柿舎の見学には身分証明書が必要。所要1時間。
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