
松月院
伊東駅の北側高台にある曹洞宗の古刹。山門を入ると正面に本堂があり、ここからは伊東市街や海に浮かぶ手石島などの眺めがよい。開創は慶長12年(1607)で、伊東七福神の一つ。本堂左手の池に弁天堂が立ち、弁財天が祭られている。サクラ、ツツジなど花木の多い境内は、日本庭園のように手入れが行き届き、蕉風の俳人山本六丁子[やまもとろくちょうし]の句碑や墨画の内山雨海[うちやまうかい]の筆塚が立つ。木下杢太郎[きのしたもくたろう]の生家・太田家の菩提寺でもある。
- 「伊東駅」から徒歩8分
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伊東駅の北側高台にある曹洞宗の古刹。山門を入ると正面に本堂があり、ここからは伊東市街や海に浮かぶ手石島などの眺めがよい。開創は慶長12年(1607)で、伊東七福神の一つ。本堂左手の池に弁天堂が立ち、弁財天が祭られている。サクラ、ツツジなど花木の多い境内は、日本庭園のように手入れが行き届き、蕉風の俳人山本六丁子[やまもとろくちょうし]の句碑や墨画の内山雨海[うちやまうかい]の筆塚が立つ。木下杢太郎[きのしたもくたろう]の生家・太田家の菩提寺でもある。
その険しさから、鈴鹿・箱根とともに東海道の三大難所と呼ばれた小夜の中山峠。この中腹に奈良時代に行基によって開かれたといわれる名刹。慶長5年(1600)関ケ原の合戦につながることとなる会津上杉征伐で、大阪から軍を進めた徳川家康を掛川城主・山内一豊がもてなした茶亭跡や夜泣石伝説にまつわる夜泣石といわれる石が供養塔として境内に残る。
村山浅間神社は明治時代の初めまで京都の聖護院を本寺とする修験道の拠点で「富士山興法寺」と称し、富士修験の中心地であった。戦国時代には、時の権力者である今川氏の庇護を受け、数多くの先達や道者(登山者)が集い、富士登山の中心地として栄えた。明治時代には、神仏分離法を受けて興法寺は廃され、大日堂と浅間神社は分離された。土・日曜、祝日には村山浅間神社案内所が開所され、富士山世界遺産ガイドが常駐。世界遺産「富士山-信仰の対象と芸術の源泉」の構成資産の1つ。
稲取灯台近くにある小さな神社。社の中に神輿が祭られており、中には2.2mもある男性のシンボルがご神体として鎮座している。毎年6月上旬に行われていたどんつく祭りは53回でお休みし、現在は神社にて日中神事のみを行うことになる。「どんつく」の名称は子孫繁栄、夫婦和合、無病息災を願いドンと突くというのが語源。
嘉永7年(1854)日米和親条約付録下田条約が締結された国指定史跡。境内の黒船ミュージアムには黒船開国の資料3000点を所蔵。英語・中国語のナレーションのついた黒船開国の映像をシアターで見ることができる。ミュージアムショップを併設。境内には1000株のアメリカジャスミンが5月に満開となり「香りの花まつり」が開催される。
源氏山の西麓にあり、鎌倉幕府5代執権北条時頼が開基。境内奥に時頼の墓もある。時頼は若くして家督を譲り、出家して「最明寺殿」と呼ばれた。
島民の信仰の中心となっている風情ある古社。鎌倉時代以前の創建とも伝えられ、毎年7月には例大祭が行われている。
安政元年(1854)12月に日露和親条約が調印され、翌年1月に日米和親条約批准書が交換された寺。宝物館(料金:200円、時間:9~17時、休み:無休)には、お吉観音や条約当時の拝領品、ロシアとのゆかりから旧ソ連から送られた人形や絵葉書などが展示されている。
入間の高台にある寺。伊豆国七福神の霊場でもあり、子育布袋尊天[こそだてほていそんてん]を祭る。墓地にあるニール号遭難者招魂碑は、明治7年(1874)に入間沖で坐礁、沈没したフランスの郵便船ニール号の船員を弔った慰霊塔。
奈良時代の創建といわれ、今川氏や徳川氏から厚く信仰されてきた。本堂は桃山文化の影響を受けたとされる壮大な茅葺屋根。堂内には本尊千手観音立像が安置されるが、60年に一度の開帳で次回は2054年だ。境内にある樹齢1000年の老木、十本杉(天然記念物)も見もの。
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